渋沢栄一の漢詩 哭蘆陰兄(蘆陰兄を哭す)

作者


原文

哭蘆陰兄

從此與誰談舊思
人間無復認雄姿
潸然今日炷香處
却憶高歌彈鋏時

訓読

蘆陰兄を哭す

此れより 誰とともにか 旧思を談ぜん
人間 復たと雄姿を認むること無し
潸然として 今日 香を炷く処
却って憶ふ 高歌弾鋏の時

蘆陰兄の死をなげき悲しむ

これからのちはいったい誰と一緒に昔を思う気持ちを語り合えばいいのだろうか
もう二度とこの世で君の雄姿を見ることはないのだ
はらはらと涙を流しつつ線香をあげている今
思い出すのは、二人で志を抱きながら境遇への不満を大声で歌っていた若い頃のことだ

蘆陰:渋沢喜作(成一郎 1938~1912)の号。渋沢栄一の父方の従兄。幕末には栄一や尾高惇忠らとともに尊皇攘夷運動にかかわったが、挙兵計画頓挫ののち、栄一とともに京都へ逃れ、一橋慶喜に仕えた。慶喜の将軍就任により幕臣となり、戊辰戦争では、彰義隊ついで振武軍を結成して新政府軍と戦ったが敗れ、榎本軍に合流して箱館戦争に参加した。箱館戦争終結後、新政府軍に投降し投獄されたが、新政府に仕官していた栄一のはたらきかけで赦免され、新政府に出仕することとなった。養蚕製糸業視察のため渡欧したのち、栄一の後を追うかたちで実業界に転じ、横浜に「渋沢商店」を設立して廻米問屋や生糸商を営んだほか、財界活動にも尽力した。大正元年(1912年)8月30日没。
人間:この世。人の世。
無復:部分否定。二度とは~することはない
潸然:涙が流れ落ちるさま。
炷香:「炷」は焚く、焼く。
彈鋏:「鋏」は剣、刀、刀のつか。刀のつかを叩いて拍子をとる。中国の戦国時代、斉の孟嘗君の食客だった馮驩が、待遇に不満を持って「長鋏よ帰らんか」と歌ったという故事から。 《戰國策・齊策》「 居有頃、倚柱彈其劍、歌曰、長鋏歸來乎、食無魚。 左右以告。 孟嘗君曰、食之,比門下之客。」

餘論

いとこであり、幼馴染であり、若いころから長く同志であった渋沢喜作の死をいたんで、渋沢栄一が詠んだ詩です。

同じくいとこながら、先生・先輩であった尾高惇忠の死をいたんだ詩と比較すると、似ている部分が多いだけに、両詩の異なる部分から喜作と惇忠の人柄の違い、栄一との関係性の違いを読み取ることができます。尾高惇忠については「人間何處認淸姿」、喜作については「人間無復認雄姿」と述べていて非常に似た句になっていますが、惇忠は「清姿」、喜作は「雄姿」、と言葉を使い分けていて、しかもそれが二人の人柄の違いをよく表しています。また、どちらの詩でも、結句で故人との思い出の場面を挙げている点は同じですが、惇忠との思い出は彼が開いていた私塾で詩を学んでいた頃のこと、喜作との思い出はともに志を抱きつつ苦しい境遇に憤っていた頃のこと、となっていて、これもまた二人との関係性の違いがよく表れています。

「高歌彈鋏時」が具体的に指している時期ですが、馮驩の故事と最もよく呼応するのは、一橋家に仕官したばかりの下積み時代で禄も低かった頃でしょう。ただ、それ以前、故郷を出て苦しい境遇のなか「悲憤慷慨」しながら尊皇攘夷の活動にかかわっていた頃も含むと見てもいいのではないかと思います。