渋沢栄一の漢詩 送孫敬三之歐洲(孫敬三の欧洲へ之くを送る)

作者


原文

送孫敬三之歐洲

一去正知別恨新
征衣從是幾風塵
英京春色巴城月
須記故國有老親

訓読

孫敬三の欧洲へ之くを送る

一たび去れば正に知らん 別恨の新たなるを
征衣 是れより 幾風塵
英京の春色 巴城の月
須らく記すべし 故国に老親有るを

孫の敬三がヨーロッパへ行くのを送る

いったん日本を去れば、別れの悲しみが新たにわいてくることにきっと気づくだろう
これからお前の旅ごろもには、異郷での苦労がどれだけ降りかかることだろうか
だが、ロンドンの春景色を見るときもパリの月を眺めるときも
故国日本に年老いた親がいることを決して忘れてはならないぞ

敬三:渋沢栄一の孫の敬三(1896~1963)。父・篤二の廃嫡にともない祖父・栄一の後継者となった。1921年(大正10年)東京帝大経済学部を卒業して横浜正金銀行に入行し、翌1922年にロンドン支店勤務となり渡英することとなり、同年8月2日に送別会が開かれ、栄一も出席した。
別恨:別れの深い悲しみ。
征衣:旅ごろも。
風塵:旅行中の苦労、異郷での苦労。
英京:英国の首都ロンドン
巴城:パリのこと。「巴里」の「里」は仄声のためここでは使えないため、「巴城」と表現したもの。「城」は平声。
須:必ず~しなければならない
記:覚えておく、記憶する
老親:父・篤二と母・敦子(伯爵橋本実梁の娘)

餘論

渋沢栄一の長男市太郎は夭逝しており、次男篤二が嫡男でしたが、篤二には健康問題に加えて女性スキャンダルもあったため、1913年(大正2年)に廃嫡となり、篤二の長男敬三が嫡孫として後継者に指名されました。

もともと動物学者を志して農科を志望していた敬三に対し、栄一は自分の事業を継ぐため法科に進むよう懇願し、羽織袴で土下座までしたと伝わります。そこまで期待する孫が晴れて実業の世界に入り、大英帝国の首都ロンドンに赴任するのを送り出そうというのですから、さまざまな思いが胸に沸き起こったことでしょう。

栄一自身、何度も海外を訪れており、自分の目で世界を見ることの重要性を痛感していただけに、期待する孫がその機会を得たことを頼もしく、また誇らしく思っていたことは間違いありません。一方で、自分の目が届かなくなることへの一抹の不安もあったでしょう。廃嫡となった篤二の女性スキャンダルのことも頭をよぎったかもしれません。「ロンドンもパリもしっかり見て楽しめばよい。しかし渋沢家を背負っていることを決して忘れるな」というのが転結の意図でしょう。言葉の上では「老親」は当然、父篤二と母敦子のことですが、栄一の気持ちとしては「老祖父」である自分のことも含めていたかもしれません。