伊達政宗の漢詩 春雨旅懷(春雨旅懐)

作者

原文

春雨旅懷

旅行信馬過人家
往往問來路轉賖
春雨濕衣日將暮
此時開否故郷花

訓読

春雨旅懐

旅行きて馬に信(まか)せて人家を過(よぎ)る
往往 問ひ来たれば 路 転(うた)た賖(はる)かなり
春雨 衣を湿(うるほ)して 日 将に暮れんとす
此の時 開くや否や 故郷の花

春雨のなかの旅情

馬の進むがままに旅路を行きつつ、人家に立ち寄り
ときどき尋ねてみると、そのたびごとに、かえってますます、この先の道のりは遥かに遠く感じる
春雨が衣服を濡らして今にも日が暮れようとしている
さて、今頃、故郷仙台の梅の花は咲き始めているだろうか

旅懷:旅の中で感じる思い。旅情。
信馬:馬にまかせる。馬の進むがままにいく。白居易《長恨歌》「君臣相顧尽沾衣 東望都門信馬歸」
往往:ときどき
:いよいよ、ますます。すればするほどかえってますます、の意を含む。韓翃《宿石邑山中》「山靄蒼蒼望轉迷」
:はるか遠い
故郷:政宗の出生地は米沢だが、ここでいう「故郷」は居城の仙台である
:ここでは梅の花

餘論

慶長13年(1608年)の正月下旬、江戸から仙台へ帰る途中の作です。まだまだ冷たい早春の雨に濡れてのつらい旅路で、日も暮れて来て気が滅入るなかで、仙台で咲きはじめたであろう梅を思い浮かべて郷愁をいっそう募らせるという詩意です。承句の「尋ねるたびに、かえってますます道のりが遠く感じる」というのはちょっとわかりにくいかもしれません。どんなに遠くても、仙台に向かって進んでいる以上、尋ねるたびに確実に先の道のりは短くなっているはずですから。しかし、この承句のような感覚は誰しも経験があるのではないかと思います。たとえば何か早く終わってほしい時間を過ごしている最中、時計を見るたびに、期待していたほど時間が過ぎていないためにかえって残りの時間の長さを絶望的に感じる・・・というのと同じことです。