松平春嶽の漢詩 二日書事(二日、事を書す)

作者

原文

二日書事
(自注:時傳聖上登遐之報)

習習東風吹柳長
新鶯出谷報靑陽
吾人別有傷春處
終日垂簾暗斷腸

訓読

二日 事を書す
(自注:時に聖上の登遐の報を伝ふ)

習習たる東風 柳を吹いて長く
新鶯 谷を出でて青陽を報ず
吾人 別に有り 春を傷む処
終日 簾を垂れて暗(ひそ)かに腸を断つ

正月二日、事柄をしるす
(自注:おりしも帝の崩御の知らせが伝わる)

春風はそよそよと柳の長い枝を吹き抜け
囀りはじめたウグイスが谷を出て春の訪れを告げる
しかし、私にはとりわけ、そんなのどかな春をいたましく感じることがあり
一日中、簾を下ろして閉じこもり、ひとりひそかに断腸の思いを抱えているのだ

二日:慶應3年正月2日(1867年2月6日)。
聖上:天子、帝。孝明天皇のこと。
登遐:死。特に天子の死。孝明天皇は慶應2年12月25日(1867年1月30日)に崩御、同12月29日(同2月3日)になって崩御が公になった。
習習:そよそよ。
靑陽:春。陽春。
斷腸:はらわたを断ち切る。はらわたがちぎれるほどに非常に悲しむ。

餘論

今日(平成29年1月29日)は旧暦で1月2日ということで、150年前の旧暦1月2日に作られた春嶽の詩を紹介します。この前年の年末に孝明天皇が崩御し、その悲報が伝わる中で年が明けたため、とても新春を祝うどころではなく、ひとり悲しみに暮れるしかないという心情を素直で品格のある表現で詠んでいます。公武合体の維持を望む孝明天皇が亡くなり、元服前の明治天皇が践祚したことにより、京都政界でのパワーバランスは大きく変化し、討幕運動の活発化から大政奉還、そして王政復古のクーデターへと時代が大きく動いていくことになります。そのため孝明天皇の崩御については早くから巷間で毒殺説がささやかれるなど、物騒なイメージがついてまわりますが、春嶽公のこの詩にはそのような政治的な生臭さは微塵もなく、聡明なお殿様らしい品のよさが感じられます。