細川幽斎の漢詩 近江黄門遊鞍馬看花遇雨留滯(近江黄門、鞍馬に遊んで花を看、雨に遇ひて留滞す)

作者

原文

近江黄門遊鞍馬看花遇雨留滯

成群鞍馬競春風
墨客騒人吟興濃
歸計催來山雨洒
櫻花知是欲留公

訓読

近江黄門、鞍馬に遊んで花を看、雨に遇ひて留滞す

群を成す鞍馬 春風に競ひ
墨客 騒人 吟興 濃やかなり
帰計 催し来たれば山雨 洒(そそ)ぐ
桜花 知る是れ 公を留めんと欲するを

近江中納言(豊臣秀次)様が鞍馬に遊んで花見をし、雨に降られたのでとどまった

みなで鞍馬へくり出し、馬を並べて春風の中ではなやかさを競う
文人墨客たちの詩を作ろうという意欲もさかんだ
そろそろ帰ろうとしたところ、山の雨がふりそそぐ
これはきっと、桜の花が中納言様をここに引きとめようとしているのだ

近江黄門:豊臣秀次のこと。「黄門」は中納言を唐風に呼んだ「黄門侍郎」の略。豊臣秀次は秀吉の甥。天正13年(1585年)、近江に43万石の領地を与えられ、天正15年(1587年)11月から同19年11月まで中納言であったので、この時期、「近江中納言」と呼ばれていた。所領と官職名で人を呼ぶ習慣については「氏(うじ)・姓(かばね)・名字(みょうじ)・実名(じつみょう)・仮名(けみょう)」を参照。
鞍馬:固有名詞としては京都市左京区北西部に位置する地名。鞍馬山や鞍馬寺で有名。一方、「鞍馬」には「鞍をつけた馬」「馬に鞍をつける」という意味もあり、起句の「鞍馬」は両方の意味をかけていると思われる。
騒客:詩人のこと。もともとは「離騒」の作者屈原やその門弟宋玉らの流派の詩人を指したが、後、広く詩人を指すようになった。
吟興:詩興。詩を作ろうという気持ち。
歸計催來:そろそろ帰ろうとする
知是~:~であることがわかる。結句の本来の語順は「知是櫻花欲留公」であるがそのままでは平仄が合わないため、倒置により「櫻花」が先頭に出てきたものである。

餘論

豊臣秀次の姿をリアルタイムで詠んだ貴重な漢詩ではないかと思います。詠んだのは細川幽斎(藤孝)、有名な細川ガラシャの舅にして、肥後熊本藩細川家の礎を築いた戦国武将・大名です。制作されたのは、秀次が「近江中納言」であった期間の春に限られるので、天正16~19年の春に限定されます。さらに天正18年(1590年)の春は秀次は小田原征伐に出陣しているので除外されます。ということは、天正16・17・19年のいずれかの年の春ということになります。

豊臣秀次については、秀吉の後継者として関白の地位を継いだものの、「殺生関白」と称されるような乱行・悪行を重ねたために粛清された、無能で粗暴な人物というイメージが流布しています。そのイメージでこの詩を読むと、「やっぱり取り巻きを連れてチャラチャラ遊びまわっていたんだな」と思ってしまうかもしれません。しかし、秀次の乱行・悪行について信憑性の高い史料は少なく、多くが後世の創作である可能性が高いといわれています。一方で、領主として統治をおこなった近江八幡では善政をしいた名君としていまだに尊敬されているほか、同時代の公家が秀次の学問を高く評価する日記が残っており、少なくとも、一定の政治手腕と教養を備えた人物であったことは確かなようです。この詩を詠んだ細川幽斎は武将でありながら、当時一流の文化人であって、その幽斎がこの花見に参加し、このような詩を秀次に贈っているという事実からも、秀次が教養にすぐれた尊敬に値する人物と見られていたことを示していると思います。この詩の結句はもちろん、おべんちゃらです。しかし、もし秀次が無能で粗暴で教養もない人物であれば、幽斎ほどの人物が、そんなおべんちゃらを言うようなことはしないでしょう。まして、秀次が秀吉の後継者としての地位を確立するのは、秀吉の長男鶴松が幼くして亡くなった天正19年8月以降のことで、この詩が作られた時点ではまだ豊臣一門の有力者の一人にすぎず、すでに家督を譲った隠居の身である幽斎が無理をしてまでおべんちゃらを言わなければならない相手ではないことを考えればなおさらです。

この詩に詠まれている花見も、おそらく有力な武将や大名、公家、文化人たちが参加していて、幽斎もその中の一人だったのでしょう。秀次にとっては単なる遊びではなく、豊臣政権を維持する上でキーマンとなる人物たちとの関係を強化し、情報を収集するための場だったと考えられます。