高杉晋作の漢詩 癸亥正月元旦作(癸亥正月元旦の作)

作者

原文

癸亥正月元旦作

鷄聲喔喔訴淸晨
夢覚紅樓日已新
塵世笑他人事鬧
閑迎二十五年春

訓読

癸亥正月元旦の作

鶏声 喔喔として清晨を訴へ
夢 覚むれば紅楼 日 已に新たなり
塵世 笑ふ他の人事の鬧(さわが)しきを
閑(しづ)かに迎ふ 二十五年の春

癸亥の年の正月元旦の作

鶏の鳴き声がコケコッコーと響いて清らかな朝を告げ
夢から覚めてみれば、このお茶屋でもすでに日が変わり年があらたまっている
塵にまみれた俗世の人事のさわがしさを横目にみて笑いつつ
二十五歳の新春を静かに迎えるのだ

癸亥:文久3(1863)年。
喔喔:鶏の鳴く声をあらわす擬音語。
:ここでは「告げる」という程度の意味
紅樓:朱塗りのたかどの。転じて妓楼。妓女が歌舞を提供し客をもてなす店。日本でいえば、お茶屋。
塵世:塵にまみれた俗世。
笑他:ここの「他」は「佗」と同じく、「あの」「かの」「その」の意味で次にくる体言にかかるが、実際にはほとんど意味をなさない。「任他(佗)」「看他(佗)」などの「他(佗)」も同様である。
:さわがしい。にぎやかである。
二十五年春:数えで25歳の新春。

餘論

どうやら高杉晋作は文久3年の元旦をお茶屋で迎えたようです。できることなら真似したいものですが、一生無理でしょうね。

結句に「二十五年春」というのが出てきますが、これは数えの年です。現在の日本では年齢といえば満年齢が当たり前になっているため、昔の日本人も満年齢で年を数えていたと勘違いしている人が多いのですが、江戸時代まではおそらく満年齢という発想すらなく、明治以降、行政手続きなどの必要性から満年齢が普及して以降も、日常生活では数え年のほうがなじみ深かったはずです。今日のように年を聞かれて迷いなく満年齢のほうを答えるようになったのは、たぶん戦後になってからなんじゃないでしょうか(いや、わしが子供のころからすでに満年齢が当たり前じゃった、という戦前生まれの方がおられたらレスポンスでお知らせくださるとありがたいです)。

いちおう説明しておきますと、数え年というのは、生まれたそのときからすでに1歳、そしてその後は新年をむかえるたびに一つ年をとるという年齢の数え方です。したがって、誕生日に関係なく、年が明けるとみんな一緒に年をとります。僕もあなたも、親も子も、先生も生徒も師匠も弟子も、大金持ちも貧乏人も、誰もかれもみんな一緒に元旦にひとつ年をとるのです。きっと当時のお正月には、今日では感じられない一体感にあふれていたに違いありません。数え年の魅力、見直す価値ありと思いますが、どうでしょうか。