福澤諭吉の漢詩 得村正刀銘有長曾我部盛親帯之之八字

作者

原文

得村正刀銘有長曾我部盛親帯之之八字

曾是英雄手裏輕
南洋風雨幾回驚
士魂空寄宝刀去
三尺芒光今尚明

訓読

村正の刀にして銘に「長曾我部盛親之を帯ぶ」の八字有るを得たり

曽て是れ英雄の手裏に軽し
南洋の風雨 幾回か驚く
士魂 空しく宝刀に寄せ去り
三尺の芒光 今も尚ほ明らかなり

村正の刀で、銘に「長曽我部盛親がこれを帯びていた」という八文字があるのを入手した

この刀はかつて英雄の手の中で軽々と扱われ
南国土佐で何度となく風雲を巻き起こしたであろう
長曽我部盛親が首を切られたあとも、彼の武士の魂だけは空しくこの名刀に託され続け
三尺の長さの刀が放つ光は今もなお明るく輝いている

村正:伊勢桑名で活躍した刀工の名、あるいはその刀工が作った刀。村正の名は室町時代から江戸初期まで数代にわたって受けつがれたと考えられている。徳川家にとって縁起の悪い刀であり「妖刀村正」として江戸時代を通じて忌避されたという伝説があるが、後世の創作とする説もある。
長曾我部盛親:土佐の戦国大名(苗字は「長宗我部」とも書く)。一時期四国の大部分を制圧した長曽我部元親の四男。長兄信親の死後、元親の後継に指名され、元親の死後、家督を継いで土佐の国主となったが、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗北し、土佐一国を没収されて浪人となった。その後は徳川幕府の監視下で京都で暮らしていたが、大坂の陣に際して豊臣方からの誘いに応じて大阪城に入り、豊臣方の主力の一角として活躍した。大阪夏の陣で大阪城が落城すると再起をはかって逃亡するが、京都八幡でとらえられ首を切られた。
手裏:「裏」は「うち」。手の中。
南洋:土佐を指す
風雨:ここでは風雲に近い意味であろう
:助字。動詞についてその動作が続いていくニュアンスをあらわす。
三尺:剣の長さを示す常套句。
芒光:「光芒」に同じ。光の放射。

餘論

福澤諭吉は、西洋文明の導入を妨げるものとして漢学を徹底批判しました。また、「門閥制度は親のかたき」と公言し、維新後は自ら士族の身分を捨てて平民になりました。そんな諭吉が、漢詩で武士の魂である刀を詠むというのは不思議な感じがするかもしれません。しかし、実は諭吉は幼いころから一刀流の手ほどきを受けており、立身新流の居合術も習得していましたし、蘭学を学ぶ以前は、漢学者白石照山の塾で漢籍を修めています(白石照山との交流は生涯続き、金銭面の支援も受けています)。彼のバックボーンには間違いなく漢学の素養と武士の精神が存在していたからこそ、このような漢詩を作れたのでしょう。