春帆樓碑文 (日清講和記念碑文)
作者
伊東巳代治
原文
馬關海峡為内海咽喉以二條水道通玄海洋内外舩舶徂徠者無不過此古有臨海館今有春帆樓共為待遠客之所云樓負山面海東仰壽永陵西俯瞰街衢朝暉夕陰気象萬千令人不遑應接聞樓之所在原係阿彌陀寺之墟豊前人藤野玄洋獲方四百歩之地而開醫院其歿後寡婦某營客館縉紳多投于此甲午之役六師連勝清廷震駭急遽請弭兵翌年二月遣李鴻章至馬關伯爵伊藤博文奉命樽俎折衝以此樓為會見所予亦從伯參機務四月講和條約初成而樓名喧傳于世大正九年樓主病歿其業將廃馬關人林兵四郎投資購之嘱予記之嗚呼今日國威之隆實濫觴于甲午之役此地亦儼為一史蹟其保存豈可附忽諸乎林氏之此義擧固宜矣顧當時彼我折衝諸賢前後皆易簀老躯獨存是所以予以不文敢艸此記也
癸亥孟夏 従二位勲一等伯爵伊東巳代治 撰拜書
訓読
馬関海峡は内海の咽喉たりて、二条の水道を以て玄海洋に通じ、内外の船舶の徂徠する者、此を過ぎざるは無し。古は臨海館有り、今は春帆楼有り。共に遠客を待するの所たりと云ふ。楼は山を負い海に面し、東は寿永陵を仰ぎ西は街衢を俯瞰し、朝暉夕陰、気象万千にして人をして応接に遑あらざらしむ。聞くならく、楼の在る所は原(もと)阿弥陀寺の墟に係ると。豊前の人、藤野玄洋、方四百歩の地を獲て医院を開く。其の没後、寡婦某、客館を営み、縉紳多く此に投ず。甲午の役、六師連勝し、清廷震駭して急遽弭兵を請ふ。翌年二月、李鴻章を遣わして馬関に至らしむ。伯爵伊藤博文、命を奉じて樽俎折衝するに、此の楼を以て会見所と為す。予も亦た伯に従ひて機務に参ず。四月、講和条約初めて成りて楼の名、世に喧伝さる。大正九年、楼主病没し、其の業廃されんとす。馬関の人、林兵四郎、資を投じて之を購ひ、予に嘱して之を記せしむ。嗚呼、今日、国威の隆(さか)んなるは実に甲午の役に濫觴す。此の地も亦た儼に一史蹟たり。其の保存、豈に忽諸に附すべけんや。林氏の義挙は固より宜し。当時を顧みるに、彼我の折衝せし諸賢は前後して易簀し、老躯のみ独り存す。是れ、予が不文なるを以て敢へて此の記を艸する所以なり。
癸亥孟夏 従二位勲一等伯爵伊東巳代治 撰・拝書
訳
関門海峡は瀬戸内海の喉元にあたり、二すじの水道でもって玄界灘に通じ、内外の船舶で往来するものでここを通過しないものはない。ここには昔は臨海館があり、今は春帆楼があり、ともに遠来の客をもてなすところであるという。春帆楼は山を背にし、海に面し、東は赤間神宮を仰ぎ、西は下関の街並みを見下ろし、朝日や夕暮れの景色は千変万化で、人々が対応する暇がないほどである。聞いたところでは、楼のある場所はもともと阿弥陀寺の跡地に関係しているということだ。豊前(現在の福岡県東部と大分県北部)の人で藤野玄洋という人が、周囲四百歩(約600メートル)の土地を手に入れて、医院を開業した。その死後、未亡人の某氏がそこで旅館を営み、多くの身分ある人たちが宿泊した。日清戦争で、わが帝国の軍は連戦連勝し、清の朝廷はふるえあがって、急遽、和平を求めてきた。翌年の二月には清は李鴻章を下関に派遣した。伊藤博文伯爵(当時)は勅命により清との交渉をおこなうにあたり、この春帆楼を会談の場所とした。私もまた、伯爵に従ってこの重要な任務に参加した。四月になって講和条約が成立すると、この春帆楼の名前は広く世間に知られることとなった。大正九年、春帆楼の主人が亡くなり、廃業しそうになった。そこで下関の人で、林兵四郎という人が資金を投じて楼を購入し、私に頼んでこの文を書かせたのだ。ああ、今日の我が国の隆盛は実に日清戦争の勝利から始まったのだ。だからこの地もおごそかな一つの史跡である。その保存をどうしていい加減にしてしまっていいものだろうか。だから林氏の義挙は本当にすばらしいのだ。当時のことをかえりみると、日清両国で折衝にかかわった諸賢は前後してあの世に旅立たれ、ただこの老いぼれだけが生き残っている。そういうわけで、私は文才がないのにあえてこの記事を作成したのだ。
癸亥の年(大正12年)初夏 従二位勲一等伯爵伊藤巳代治 撰・拝書
注
馬關:下関。別名で赤間関または赤馬関と呼ぶため、この赤馬関を略して馬関という。
内海:瀬戸内海
春帆樓:山口県下関市にある旅館・料亭。日清戦争の講和会議の会場となり、「下関条約」が締結された。
寿永陵:寿永は安徳天皇のときの年号。したがって寿永陵は安徳天皇陵のこと。現在は赤間神宮の敷地内にある。
朝暉夕陰気象萬千:范仲淹の「岳陽楼記」に出てくる表現の引用。朝暉は朝日、夕陰は夕暮れ、気象は景色やおもむきのこと。
令人不遑應接:世説新語に出てくる「山川自相映発、使人応接不暇」を下敷きにした表現。景色が絶えず変化して人が対応できないほどである、という意味。
阿彌陀寺:壇ノ浦の戦いののち、源頼朝は安徳天皇の霊をなぐさめるため、阿弥陀寺御影堂を建立させ、これを安徳天皇社としたが、明治になって廃仏毀釈により阿弥陀寺は廃され、安徳天皇を祀る赤間神宮となった。この時に、藤野玄洋が阿弥陀寺の敷地の一部を購入して医院とした。
甲午之役:日清戦争。甲午の年(明治27年)に勃発した。
六師:六軍に同じ。天子の軍隊。
弭兵:「弭」はやめる、停止する。
李鴻章:日清戦争時の直隷総督兼北洋通商大臣で、当時、清国最大の実力者にして、北洋軍閥のオーナー。
樽俎折衝:樽は酒樽、俎は肉をのせる台で、「樽俎」は公式の酒宴、外交上の会見のこと。「折衝」はもと敵が衝いてくる矛先をくじき折るの意味。外交交渉のかけひきをおこなうこと。
濫觴:「觴を濫(うか)ぶ」あるいは「觴を濫(あふ)る」。大河もその源はさかずきを浮かべる程度の、あるいは、さかずきからあふれる程度の少量の水であるということから、物事のはじまりを意味する。
忽諸:いい加減であること。
易簀:賢人が亡くなること。孔子の門人の曾参が、臨終のとき、敷いていた大夫用の簀(すのこの床)を身分不相応だとして取り換えさせて亡くなった故事から。
伊東巳代治:明治~昭和の官僚・政治家。日清戦争当時、内閣書記官長。大正11年に伯爵を授爵。
餘論
下関に旅行した折、春帆楼とその横にある日清講和記念館を訪ねた際に、敷地内に立っていた石碑に刻まれていた文です。春帆楼の由来と、その史跡としての重要性を簡潔に述べています。
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