大久保利通の漢詩 王政維新之年下淀川(王政維新の年、淀川を下る)

作者

原文

王政維新之年下淀川

爲客京城感慨多
孤篷此夕意如何
水關不鎖鷗眠穏
千里長江載夢過

訓読

王政維新の年、淀川を下る

客と為って京城 感慨多し
孤篷 此の夕 意 如何
水関 鎖(と)ぢず 鷗眠 穏やかなり
千里の長江 夢を載せて過ぐ

王政維新の年に淀川を下る

故郷を離れた身となって都にいれば感慨が多い
孤独な舟で過ごすこの夕べ、思いはどんなものだろうか
夜というのに川の関所は閉ざされることもなく、カモメが穏やかに眠っている
舟は長い長い淀川の上を、夢を見ながら眠る私を載せて過ぎていく

淀川:琵琶湖から流れ出る瀬田川が京都に入って宇治川となり、大山崎町付近で桂川・木津川と合流して淀川となり、大阪平野を流れて大阪湾に注ぐ。江戸時代、淀川は京都と大坂を結ぶ交通の大動脈であった。
:故郷を離れた人。
孤篷:「篷」は竹や茅などを編んで作った舟の覆い。とま。転じて舟そのものを指す。
水關:水上の関所。江戸時代、主要河川には船改番所という関所が置かれ、通行する船舶の検査・監視・徴税などをおこなった。
:とじる。とざす。関所はだいたい暮六つ(午後6時ごろ)には閉まり、通行できなくなる。
長江:ここは中国の「長江」でなく、文字通り「長い川」の意味。淀川を指す。

餘論

「王政維新之年」というのは具体的にどの年なのでしょう。「王政復古の大号令」が出たのは慶應3年12月9日(1868年1月3日)ですが、戊辰戦争によって旧幕府勢力が打倒され、維新政府による諸改革が始まっていくのは慶應4年(9月8日以降は明治元年)ですので、慶應4年(明治元年)のことと考えるのが妥当でしょう。(西暦では王政復古の大号令が出た時点ですでに1868年なので、維新の年=1868年ということで簡単ですが、大久保自身がこの詩を作った時点で考えた「年」というのは、西暦ではなく和暦の年です)

転句に「水關不鎖」とあるのは、本来、夜になって閉じるはずの関所が開いたままで自由に通行できる状態になっていること、つまり、旧幕府が設置した関所が関所として機能していないことを意味しています。維新政府が正式に全国の関所を廃止するのは明治2年ですが、鳥羽伏見の戦い(慶応4年1月3日 ~6日=1868年1月27日 ~30日)に旧幕府軍が敗れ、京坂一帯を維新政府が掌握した時点で、すでに淀川の関所も機能しなくなっていたのでしょう。いわば、維新を象徴する情景であり、それゆえにこそ、カモメも穏やかに眠り、大久保自身も安心して船に身をまかせて眠りながら川を下っていける、という趣向になっています。むろん、これは維新政府側に立つ大久保の見る情景であって、旧幕府側に立つ人が同じ情景を見ても「鷗眠穏」とは詠まないでしょう。