作者

程順則(名護親方寵文)

原文

東海朝曦

宿霧新開敞海東
扶桑萬里緲飛鴻
打魚小艇初移棹
搖得波光幾點紅

訓読

東海朝曦

宿霧 新たに開いて 海東 敞(ひろ)し
扶桑 万里 飛鴻 緲たり
打魚の小艇 初めて棹を移せば
揺らし得たり 波光 幾点の紅

東海の朝日

昨夜からの霧が晴れて東の海を広々と見渡せるようになり
万里のかなた朝日ののぼる神木のあたりへと飛ぶ鳥の影が消えていく
網を打っていた小さな漁船が櫂を操り始めると
波の光の赤い点がいくつも揺れ動くのだ

朝曦:朝日
敞:ひらけている。広々としている。見晴らしがよい。
扶桑:東海中の日の出るところに生えているという神木。転じて日本のことを指す。ここでは前者の意にとった。
緲:かすか、はっきり見えないさま。きわめて小さいさま。
打魚:網を打って魚をとる
移棹:「棹」は船の櫂。櫂を操って舟を漕ぐ。

餘論

沖縄の祖国復帰から50年ということで、琉球王国時代の沖縄の漢詩を紹介します。

「東苑八景」と題する連作の一首目に置かれている詩です。「東苑」は東の園ですから、首里城の東の庭園からの八つの優れた眺望を詠んだ連作ということになります。そのうち、この詩は、朝日に染まる海をスケールの大きな視野で描きながら、こまやかな光の動きに着目して締めくくる見事な正攻法の叙景詩で、連作のトップを飾るにふさわしい作品と言えるでしょう。なお、承句の「扶桑」を日本の意に取ることもできますが、ここではあえて扶桑の本来の意味にとりました。日本という現実の地名より、神話上の存在である神木の扶桑のあたりへ向かって鳥影が消えていく、という内容にしたほうが、よりスケールが大きくなると思ったからです。

このように明るく美しい海を詠んだ漢詩は中国にはなく、日本と琉球で生まれたものです。この点、日本本土と沖縄の漢詩の共通点といえますが、一方で、沖縄の風土には日本本土とも異なるところが多く、中国にも日本本土にも手本のない題材を詠む苦労があったと想像できます。

琉球の漢学は、13世紀に日本からの渡来僧らによって、ひらがなとともに漢字が伝えられたことに始まります。17世紀に薩摩藩の支配下に入って以降、日本の漢文訓読法が伝えられて急速に普及したことで漢学の隆盛期を迎え、詩に関しても目覚ましい成果が見られるようになります。この詩の作者、程順則(1663~1734)は、1725年に琉球最初の漢詩文集『中山詩文集』を編纂した、当時の琉球を代表する儒学者であり詩人でした。1714年(正徳4年)には、慶賀使(徳川家継の将軍就任祝賀のため琉球から派遣された使節)に従って江戸を訪れ、当時の幕政の事実上トップであった新井白石と面談しています。また、江戸からの帰路では京都で前摂政の近衛家熙から別荘物外楼についての詩文を依頼されるなど、日本の要人・文人と交流しています。