渋沢栄一の漢詩 詣源判官祠(源判官の祠に詣づ)

作者


原文

詣源判官祠

一撃先淸輦轂塵
流離再投舊知人
誰言薄命爲終始
殊域別存未死神

訓読

源判官の祠に詣づ

一撃 先づ清む 輦轂の塵
流離して再び投ず 旧知の人
誰か言ふ 薄命 終始を為すと
殊域 別に存す 未だ死せざるの神

源義経の祠に参る

一撃で木曽義仲や平家を破って天子のお膝元である京の都の災いを取り除いたのに
頼朝と対立して追われる身となり、流浪の末に旧知の藤原秀衡のもとに再び身を投じたのだった
運命にめぐまれない最期だったと誰が言うのか、そんなことはない
実は平泉を逃れた義経は異国の地に今なお滅びることない魂を残しているのだ

源判官:源義経(1159~1189)。源義朝の九男で頼朝の異母弟。武将として源平合戦で活躍し、平家討滅の最大の功労者となったが、頼朝との関係が悪化し、奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れた。秀衡没後、その後を継いだ泰衡は鎌倉の圧力に屈して義経を襲撃し(衣川の戦い)、義経は自害した。「判官」はもともと唐・宋代に節度使の下に置かれた属官だが、日本では各役所の第三等官「じょう」の別称、なかでも特に検非違使・兵衛府の尉(じょう)を指すのに用いられた。義経は左衛門少尉・検非違使少尉に任じられていたことから「九郎判官」と呼ばれた。
詣:「詣」を「もうでる、まいる、神仏におまいりする」という意味で用いるのは日本のみであり、漢詩としては、この用い方は「和臭」となる。「詣」を本来の漢語の意味「いたる(到着する)」と読むことも可能ではあるが、詩の内容から見て、渋沢本人は「もうでる」の意味で用いてしまったと考えざるを得ない。
祠:ほこら、やしろ。義経が自害した衣川館の跡(岩手県平泉町)には、天和3年(1683年)に仙台藩藩主伊達綱村によって義経堂(高館義経堂、判官館)が建立された。また、義経の正妻郷御前が再興した雲際寺(岩手県奥州市衣川)には、義経と妻子の遺体が運び込まれたとされ、義経と郷御前の位牌が安置された位牌堂があった(平成20年火災で焼失)。また岩手県宮古市箱石には義経を祀る判官神社という神社もある。このとき渋沢が訪ねた「祠」がこれらのいずれなのかはわからないが、同時に詠まれたと思われる「平泉懐古 其一」に判官館(高館義経堂)が出てくることを踏まえると、判官館である可能性が高い。
輦轂:天子の車。転じて天子のおひざもと。寿永3年(1184年)正月、義経は後白河法皇を幽閉していた木曽義仲を破って入洛、2月には、勢力を盛り返して京都の奪還を狙っていた平家の軍を一ノ谷の戦いで破り、帰洛後は都の治安維持にあたった。
流離:居場所を失ってさまようこと。流浪する。
薄命:不幸せ、運命にめぐまれないこと。
終始:はじめから終わりまで。また、はじめと終わり。ここでは特に終わりのほうに意味の重点があるのだろう。
殊域:異域。異国。外国。

餘論

『青淵詩存』によれば明治28年(1895年)の作となっています。渋沢はこの年の9月6日から19日まで、青森県の三本木渋沢農場の視察がてら東北旅行に出ているので、その時に詠まれた詩でしょう。

結句は、いわゆる「義経北行伝説」を踏まえたものです。江戸時代すでに、義経は実は衣川で死なず北海道へ逃れてアイヌの首領となったという伝説が生まれており、その後さらに、北海道から大陸へ渡って金国(1115~1234)の武将になった、さらには清朝の皇室の祖先になった、そしてついに有名な「義経はチンギス・ハン(ジンギスカン)になった」という伝説へと変化していきます。「義経=ジンギスカン説」を最初に提唱したのは、シーボルト事件で有名なあのシーボルトでしたが、明治12年(1879年)には末松謙澄が留学先のケンブリッジ大学で「義経=ジンギスカン説」を論文として発表し、明治18年(1885年)にはその和訳が日本で出版され話題を呼びました。渋沢がこの詩を詠んだときに思い浮かべたのも「義経=ジンギスカン説」だったと思われます。それは必ずしも、渋沢がその説を信じていたということではなく、詩の題材としてうまく取り入れたということです。それによって非業の最期をとげた義経の霊をなぐさめ、鎮めたいという思いだったのではないでしょうか。