乃木希典

1849年12月25日(嘉永2年11月11日)~1912年(大正元年)9月13日。幕末~明治の武士・軍人。長州藩の支藩である長府藩の藩士乃木希次の三男として生まれた。2人の兄は夭逝していたため嗣子となり、両親から厳しい教育を受けた。

十代のころから漢学を学び、吉田松陰の叔父にあたる玉木文之進から手ほどきを受けたのち、長州藩の藩校明倫館に入った。各種武芸も習得し、一刀流は目録を伝授されている。

元治2年(1865年)に友人たちと長府藩報国隊を結成し、慶応元年(1865年)の第二次長州征討では、一部隊を率いて小倉口の戦いに参加して小倉城に一番乗りする活躍を見せたが、戊辰戦争時には足をくじいていたことから、藩に出陣を禁じられ、参加できなかった。

維新後は陸軍に入り、各地の鎮台勤務を経て、秋月の乱鎮圧や西南戦争に従軍し戦果を挙げた。しかし、西南戦争では敵の薩軍に連隊旗を奪われるという失態を演じ、その自責の念から厳しい処分を自ら望み、自害をも図ったが、児玉源太郎に押しとどめられたとされる。

その後、ドイツ留学、各地の歩兵旅団長歴任、休職、復職を経て、明治27年(1894年)8月、日清戦争が勃発すると、第一旅団長として出征し、旅順要塞を1日で攻略するなど活躍し、その武功は高く評価された。

日清戦争後は第二師団長を経て、明治29年(1896年)10月、第3代台湾総督に就任し、現地住民の教育や行政機関への採用に力を入れるとともに、支配側の日本人の綱紀粛正を徹底した。明治30年(1897年)11月に台湾総督を辞任後は、休職、第11師団長、再休職を経て、日露戦争開戦直前の明治37年(1904年)2月に留守近衛師団長として復職した。

日露開戦後の5月、第三軍司令官に任命され、旅順攻略を命じられた。ロシア軍によって堅固な要塞が築かれた旅順の攻略は困難を極めたが、壮絶な消耗戦の末、明治38年(1905年)1月1日、ロシア軍を降伏に追い込んだ。旅順陥落後、水師営において旅順要塞の司令官ステッセルと会見した際に、ステッセルに敬意をもって接し、その名誉を重んじた。降伏した敵将に対するこのふるまいは軍人の理想として世界的に賞賛された。その後、乃木率いる第三軍は奉天会戦でも奮戦し、ロシア軍を退却させ、日本に勝利をもたらす原動力となった。

日露戦争後は国民的英雄として広く賞賛と尊敬を集めたが、乃木自身は多数の将兵を死なせた自責の念にさいなまれ、自刃して罪を償いたいと明治天皇に上奏した。天皇からは「どうしても死ぬというなら朕が死んでからにせよ」ととどめられたという。

その後は、明治天皇の勅命により、軍事参議官(現役武官)のまま学習院長を兼任することとなり、学生と寝食をともにしながら勤勉と質素を旨とする「乃木式教育」で生徒を指導した。明治41年1908年)4月に学習院に入学した迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)も乃木の薫陶を受け、人格形成に大きな影響を受けた。

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の大喪の礼の日の夜、妻・静子とともに自刃して亡くなった。多くの国民がこの殉死に驚き悲しみ、9月18日におこなわれた葬儀の際、自宅から葬儀場までの沿道は20万人もの人で埋め尽くされた。