大正天皇の漢詩 天長節

作者


原文

天長節

雲晴日暖拜天閽
萬歳聲中謝聖恩
昭代佳辰祈寶壽
九重賜宴酌芳樽

訓読

天長節

雲 晴れ 日 暖かく 天閽を拝し
万歳声中 聖恩を謝す
昭代の佳辰 宝寿を祈り
九重に宴を賜りて 芳樽を酌まん

天長節

雲が晴れて日が暖かく降り注ぐなか皇居の門を拝しながら
万歳の声が響くなか陛下の聖なる恩に感謝する
輝かしい太平の御世の素晴らしい時に帝の長寿をお祈りしつつ
宮中で宴をたまわってお祝いの美酒を頂くことにしよう

天長節:天皇(ここでは明治天皇)の誕生日を祝い奉る祭日。明治時代の天長節は11月3日。
天閽:宮城の門。
聖恩:天子の恩、めぐみ。
昭代:よく治まった素晴らしい御代。
佳辰:よき時。
寶壽:天子の長寿。
九重:天子の宮殿。王城の門は九重に作ったことから。
賜宴:うたげをたまわる。天子が主催する宴に参加を許される。
芳樽:うまい酒の入った樽。転じてうまい酒そのもの。

餘論

皇太子時代の大正天皇(明宮嘉仁親王)が父である明治天皇の誕生日を祝って詠まれた天長節の詩です。天皇(当時は皇太子ですが)が詠んだ天長節の詩というのは他にないのではないかとおもいます。

凝った技巧や読者をうならせる構成はなく、単純といえば単純、平板といえば平板な作品ですが、それだけに素直なお祝いの気持ちがまっすぐ伝わってきます。お祝いの詩というのはこうあるべきなのでしょう。

なお、『大正天皇御製詩集謹解』(木下彪著・昭和35年)ではこの詩を明治30年の作に入れていますが、この年は1月11日に英昭皇太后(孝明天皇の皇后)の崩御があり、喪中のため天長節の祝賀行事はなくなっていたため、詩の内容からして明治30年の作ではありえない旨、『天地十分春風吹き満つ―大正天皇御製詩拝読―』(西川泰彦著・平成18年)が指摘しています。

西川氏によれば翌年の明治31年は雨天で観兵式が中止になっているので起句の「雲晴日暖」に反しており、前年の明治29年の作とすれば天候も矛盾しないと推察しています。そうなると大正天皇(嘉仁親王)は当時未成年の18歳で、結句の「酌芳樽」にそぐわないことを踏まえたうえで、西川氏は結句は「群臣諸員の様子」を詠んだものと解しています。これはこれでうなずける解釈です。

ただ、漢詩の場合は、一人称が作者自身とは限らず、他人に代わって思いを詠んだり、他人になったつもりで詠むことは普通のことですので、この詩の結句も、「群臣諸員の様子」を第三者の眼で詠んだ、というよりは、彼らになったつもりで、あるいは彼らと一体になって思いを重ね合わせて詠んだ、ということでいいのかもしれません。