山県有朋の漢詩  十一月十一日夢旅順城陷、賦示乃木將軍

作者


原文

十一月十一日夢旅順城陷、賦示乃木將軍

百彈激雷天亦驚
包圍半歳萬屍橫
精神到處堅於鐵
一擧直屠旅順城

訓読

十一月十一日、旅順城の陥るを夢み、賦して乃木将軍に示す

百弾 激雷 天も亦た驚く
包囲 半歳 万屍 横たはる
精神 到る処 鉄より堅く
一挙 直ちに屠る 旅順城

11月11日、旅順要塞が陥落するのを夢に見、詩を詠んで乃木将軍に示す

何百もの砲弾が激しい雷鳴のようにとどろき天もまた驚くほどだ
包囲作戦は半年に及び、幾万の屍が横たわっている
だが、わが軍の精神はどこであっても鉄より堅固であり
一挙に攻め立ててそのまま旅順要塞を陥落させてしまった
(という夢を見たが、これを早く現実にしてくれ)

十一月十一日:1904年11月11日。
旅順:遼東半島南端の軍港。もともと三方を山に囲まれた天然の要害であったが、1898年3月、清朝から25年間の租借権を得たロシアがここに難攻不落の近代要塞を築き、第一太平洋艦隊(旅順艦隊)の根拠地とした。日露戦争前半における最大の激戦地となった。
乃木将軍:乃木希典。旅順要塞攻略のために編成された第三軍司令官。ロシアが技術の粋を凝らして築いた旅順要塞の攻略は困難をきわめ、日本国内では一部から乃木を更迭せよとの声も上がっていた。
天亦驚:明治書院『新釈漢文大系45 日本漢詩 下』(以下『日本漢詩』)中で引用されているところによれば「天爲驚(天 為に驚く)」となっている。
包圍:日本軍による旅順攻囲戦。『日本漢詩』では「合圍」となっている。
半歳:第三軍が旅順外延部に進出したのが6月26日頃、旅順要塞の前線陣地への攻撃をはじめたのが7月26日であり、いずれから起算しても、11月11日の時点で半年は経過していないが、大まかに表現したもの。
萬屍橫:この時点までで、第1回総攻撃で五千人余、第2回総攻撃前半戦で千人近く、第2回総攻撃後半戦で千人余の戦死者を出していた。
到處:いたるところ。あちこち。どこでも。ただし、『日本漢詩』では「所到」となっており、この場合、「所」は関係代名詞であって「到達したところのもの」の意となる。このほうが詩意としてはしっくり来るが、ここでは上褐のとおり「到處」として解した。
直屠:『日本漢詩』では「遂屠」となっている。なお、この詩は、山県が夢に見た光景を詠んだものであるから、訓読としては「屠る」が適しており、ここでもそう訓じたが、乃木に向けた意図としては「夢と同じように早く城を落とせ」ということであるから、気持ちとしては「屠れ」であったろう。そのためか「屠れ」とする読み方が広く行われている。

餘論

2月1日は山県有朋没後100年ということで、山県のおそらく最も有名な詩をとりあげます。日露戦争のさなか、旅順要塞の攻略に苦戦していた第三軍司令官乃木希典に贈った激励(もしくは叱咤)の詩です。文字通りの内容としては、「旅順が陥落するのを夢で見た」と言っているだけですが、真の意図はもちろん、「この夢を早く正夢にしろ」という強烈な催促であることは言うまでもありません。

夢を描いた詩と述べましたが、前半の描写は現実の旅順の光景そのものであり、甚大な被害を出しながら戦果を上げられない乃木に対し、大本営内でも公然と乃木更迭を求める声が上がりはじめていました。しかし、明治天皇は「乃木をかえてはならぬ。誰が引き受けても同じであるぞ」と更迭論を抑え、第三軍将兵に激励の勅語を賜りました。このとき、山県も激励の電報を送り、この詩を添えたのです。現場の司令官としては、具体的な助言もないこのような詩を示されても、プレッシャーで苦悩が増すばかりだと思いますが、山県は山県で、乃木の更迭を封じられた以上、「とにかく頑張れ」というほかなかったのだとも言えます。

このあと、第三軍は第3回総攻撃を決行し、有名な白襷隊の突撃、二〇三高地攻略など、壮絶な消耗戦の末、翌1905年1月、ついにロシア軍を降伏に追い込み、旅順要塞を陥落させます。山県のこの詩が功を奏した―とは思えませんが、乃木の「爾靈山」詩などとともに、旅順攻囲戦の苦難を象徴する詩のひとつといえるでしょう。

なお、注でも触れているとおり、この詩は史料によって異同が多いのですが、ここでは、恐らく最も人口に膾炙しているであろう形を掲げておきました。ちなみに、司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、この詩を以下のように紹介しています。

さらに山県は、それでも足りぬと思ったか、電報で漢詩を送った。
百弾激雷、天モマタ驚ク
合囲半歳、万屍横タワル
精神致ルトコロ鉄ヨリ堅ク
一挙直チニ屠レ旅順城
この漢詩には、もしこんどの総攻撃に失敗するようなことがあれば責任をとれ、という意味の暗示を含んでいた。