作者


原文

戊申紀元節

憲政施行二十年
此間更見國光宣
死餘老骨傾杯酒
恩賜館中會衆賢

訓読

戊申紀元節

憲政施行二十年
此の間 更に見る 国光の宣ぶるを
死余の老骨 杯酒を傾け
恩賜館中 衆賢に会す

戊申の年(明治41年)の紀元節

立憲政治がおこなわれるようになって二十年
この間、わが日本国の威光が世界に広まるのを目の当たりにしてきた
今日のこのめでたい日、死にぞこないの老いぼれの私も杯を傾けて酒を飲み
ここ恩賜館で、集まってくれた多くの立派な方々と会って楽しもう

戊申:明治41年(1908年)。神武紀元では2568年。
紀元節:現行の法令上の祝日名は「建国記念の日」。2月11日。神武天皇が即位したとされる神武天皇元年1月1日(辛酉の年、春正月、庚辰朔)を西暦に換算して紀元前660年2月11日と定めたことに基づく。
二十年:1890年に大日本帝国憲法が施行され、第1回帝国議会が開会して、立憲政治が始まってからおよそ20年。
國光:国の威光。国のほまれ。
宣:広まる。行き渡る。また、揚がる、発揚する。
恩賜館:1907年1月に、明治天皇は憲法制定の功績に対し、赤坂仮皇居御会食所(かつて大日本帝国憲法草案審議の御前会議が行われた)を伊藤に下賜した。伊藤はこれを東京府荏原郡大井村の自邸に移築し、「恩賜館」と名付けた。この詩の詠まれた明治41年(1908年)の紀元節には、恩賜館の開館式が開催され、官民内外の有力者千人以上が集まったという。伊藤の没後、明治神宮外苑造営がはじまると、遺族が恩賜館を明治神宮奉賛会に奉献、大正7年(1918年)に信濃町に再移築され、現在は明治記念館となっている。

餘論

今日は紀元節なので、明治41年の紀元節に伊藤博文が詠んだ詩を取り上げます。

この詩が詠まれた日は伊藤にとって生涯の集大成ともいうべき晴れ舞台の日でした。立憲政体の確立に尽力してきた伊藤に対し、天皇がその功績をたたえて下賜した「恩賜館」の移築が成り、各界の有力者がこぞって参加する開館式が挙行されたのです。しかもその日は日本という国にとってもめでたい紀元節なのですから、喜びは大変なものだったでしょう。伊藤の上機嫌ぶりが詩の全篇から伝わってきます。

個人が天皇から建物を一つまるごと賜るというのは、当然きわめて珍しいことで、元老筆頭たる伊藤ならではです。ましてその建物は伊藤が心血を注いで作り上げた大日本帝国憲法の草案審議がおこなわれた思い出深い場所だったのです。欧州での憲法調査以来の長い来し方を振り返って感慨もひとしおだったでしょう。

起句承句は憲政開始以来の日本の国運隆盛をたたえていますが、その背後には、それを実現してきたのは自分なのだという自負が垣間見えます。実際、この約20年の間に日本は日清・日露の役に勝利し、維新以来の悲願であった「列強に伍する世界の一等国」に近づきつつありましたが、それもこれも、自分が尽力してきた立憲政体の確立があってこそ、と伊藤は固く信じていたはずです。

転句の「死余の老骨」というのはむろん謙遜ですが、その謙遜の中に「俺はもうやるべきことはやった。いつ死んでもかまわない」という覚悟と達観もこめられているように思います。この詩の翌年、伊藤はハルピンで凶弾に斃れることになります。