渋沢栄一の漢詩 題平九郎遺刀(平九郎の遺刀に題す)

作者


原文

題平九郎遺刀

烏兎何時能雪冤
九原無復慰幽魂
遺刀今夜挑燈見
猶剩當年舊血痕

訓読

平九郎の遺刀に題す

烏兎 何れの時にか 能く冤を雪がん
九原 復た幽魂を慰むる無からん
遺刀 今夜 灯を挑げて見れば
猶ほ剰す 当年の旧血痕

平九郎の遺した刀に対して詩を作る

あれから歳月が流れたがいつになれば平九郎の無実の罪をすすぐことができるだろうか
あの世には平九郎の魂を慰めてくれるものなどありはすまい
今夜、灯心をかきたてて形見の刀を見てみれば
当時の古い血痕がまだ残っている

平九郎:渋沢平九郎。諱は昌忠。栄一の妻・千代の弟で、栄一の養子。慶応3年(1867年)にパリ万博に将軍名代として派遣された徳川昭武の随員として栄一が渡欧し日本を離れることとなったため、男児のなかった栄一の家督相続人として養子になった。戊辰戦争勃発後、彰義隊ついで振武隊に参加して新政府軍と戦った。慶応4年(1868年)5月23日、武蔵国飯能で新政府軍にやぶれた振武隊は壊滅し、ひとりはぐれた平九郎は黒山村で政府軍兵士に遭遇し抵抗の後、自刃した。その首は新政府軍によってさらされたが、体のほうは村人によって黒山村の全洞院に埋葬された。明治6年(1873年)、栄一の意向により平九郎の首と骸が渋沢家墓地に移されて改葬され、全洞院のほうにはあらためて平九郎の墓石が建てられた。明治32年(1899年)6月と明治45年(1912年)4月、栄一は平九郎自決の地と全洞院の墓を訪れている。
遺刀:振武隊当時、平九郎は勝村徳勝作の大小を佩していたが、振武隊壊滅後に飯能から落ちのびる際に立ち寄った顔振峠の茶屋の女主人に大刀(打刀)を託し、黒山村では小刀(脇差)のみで新政府軍の兵士3人に激しく応戦し、最後はこの小刀で自刃した。この小刀は新政府軍の手に渡ったが、のち明治26年(1893年)に栄一のもとに戻った。大刀のほうも別途栄一の手元に戻っているが、この詩で詠まれているのは自刃に用いた小刀のほうであろう。
烏兎:太陽には三本足の烏が、月には兎が住んでいるとの伝説から、太陽と月、転じて月日、歳月をあらわす。
雪冤:無実の罪をすすぐ。新政府軍と戦って亡くなった平九郎は賊軍の兵として首をさらされている。
九原:墓場。また黄泉の国。あの世。春秋時代、晋の卿大夫の墓地があった地名から。
無復:まったくない。「復」は否定の強調。
幽魂:死者のたましい。
挑燈:灯火の芯を上に出す。灯心をかきたてる。
當年:当時。

餘論

『青淵詩存』によれば明治27年(1894年)の作となっています。平九郎の死から26年経っていますが、同じ年に「追悼義子平九郎」詩二首も詠んでおり、おそらく前年に平九郎の遺刀を入手したことから平九郎のことを悼む思いが強まり、一連の詩を詠んだものと思われます。

自分の養子にしてしまったがために、その運命を変えてしまい、若くして命を落とすことになってしまった平九郎のことが栄一にとって癒やすことのできない心の傷であり続けたことは、起句と承句からうかがうことができます。遺刀に本当に血痕が残っていたかどうかはわかりませんが、少なくとも栄一の目にははっきりと見えたに違いありません。