渋沢栄一の漢詩 詠菊憶先考晩香君(菊を詠じて先考晩香君を憶ふ)

作者


原文

詠菊憶先考晩香君

白羽金錢好傲霜
任他秋色委荒涼
請看百卉凋落後
有此幽叢晩節香

訓読

菊を詠じて先考晩香君を憶ふ

白羽 金銭 好く霜に傲る
さもあらばあれ 秋色の荒涼に委すは
請ふ 看よ 百卉 凋落の後
此の幽叢 晩節の香 有るを

菊の詩を詠んで亡父晩香君を思い浮かべる

白い羽のような白菊、金貨のような黄菊が立派に霜に耐えて咲いている
深まる秋の景色が荒れ果てて物寂しくなっていっても、かまいはしない
どうか見てほしい、様々な草木の花が枯れ落ちた後も
この静かな叢ではなおも衰えることのない菊の香りがただよっているのを

先考:亡くなった父親。
晩香:栄一の父・市郎右衛門(維新後は市郎と名乗った)。「晩香」は生前用いた号であるとともに、没後の戒名の院号にも用いられた(晩香院藍田青於居士)。 文化6年(1809年)、渋沢家の分家「東の家」の三男に生まれたが、男子のなかった本家筋「中の家」の婿養子となって家督を継ぎ、家業の養蚕・製藍に励んで傾きかけていた中の家を立て直した。明治4年11月22日(1872年1月2日)、病没。
傲霜:霜の寒さに屈しない。菊を詠じる際の常套句。
任他~:文字通りには「他の~するに任す」となるが、通常、「さもあらばあれ~」と訓じ、「~になってもかまいはしない」という意味をあらわす。
百卉:様々な草花。
晩節香:表向きの意味は晩秋でも衰えない菊の花の香りを指しつつ、市郎右衛門の晩年まで全うした節操の見事さの意味もこめている。市郎右衛門の号「晩香」にちなんだ語であることはいうまでもない。

餘論

明治13年(1880年)、父・市郎右衛門の十回忌に際して渋沢栄一が詠んだ詩です(おそらく同時に作られた詩に「先考晩香君十年忌靈前感賦」があります)。詩題のとおり、表面上は菊を詠みつつ、父の人柄を菊になぞらえて偲んでいます。「霜に傲る菊」は、忠節の堅い人物をたとえるのによく使われるモチーフです。困難な状況であろうと、他人がどうあろうと、時代がどう変わろうと、自分の信念を貫いた市郎右衛門は、栄一には、冬が近づく荒涼たる景色の中でひとり咲き誇る菊のように見えたのでしょう。

起句で、菊を「白羽」「金銭」にたとえていますが、菊の花を「錢」にたとえるのは異例です。儒教の影響が強い漢詩文では銭は卑しいものとして扱われることが多いからです。渋沢はそのような偏見にとらわれていなかったのだと言ってしまえばそれまですが、詩としての美しさを考えるなら「白羽」「金釵(金のかんざし)」くらいにしたほうがいいのに、と僕などは考えてしまいます。

なお、市郎右衛門が亡くなったのは太陽暦採用前のため、天保暦では明治4年11月22日ですが、太陽暦(グレゴリオ暦)ではすでに年の明けた1872年1月2日となります。その後、明治6年(1873年)元旦をもって太陽暦が採用されたため、十回忌は、和暦で考えると明治13年11月、太陽暦で考えると1881年1月となりますが、この詩が明治13年(1880年)に詠まれたということは、年忌のタイミングは改暦の前も後も和暦で統一して考えたということなのでしょう。考えてみれば、政府が改暦したからといって、父の命日を11月22日から1月2日に変えられるかと言われれば、心情的に無理でしょう。