渋沢栄一の漢詩 詠嶽呈静岡正二位公(嶽を詠じ静岡正二位公に呈す)

作者


原文

詠嶽呈静岡正二位公

高風吹拂世間塵
一白淸姿逐歳新
無復雲烟蔽標格
依然氷雪護天真

訓読

嶽を詠じ静岡正二位公に呈す

高風 吹き払ふ 世間の塵
一白の清姿 歳を逐ひて新たなり
復た雲烟の標格を蔽ふこと無く
依然たる氷雪 天真を護る

富士山を詩に詠んで徳川慶喜公にたてまつる

天高く吹く風が俗世の塵を吹き払い
真っ白い清らかな姿は毎年毎年新たになる
雲や霧がその素晴らしい風格を覆い隠すことは決してなく
変わることない氷と雪が天然の純粋さを守っている

嶽:富士山
静岡正二位公:江戸幕府最後の将軍徳川慶喜。廃藩置県によって各藩主とその家族は東京に移住したが、徳川宗家当主の家達が東京に移った後も、慶喜は明治30年(1897年)まで静岡に残っていた。また、慶喜は鳥羽伏見の敗戦後、官位を剥奪されていたが、明治5年(1872年)に従四位に叙され、明治13年(1880年)には将軍時代と同じ正二位に復した。その後、明治21年(1888年)には従一位に昇った。
無復:決して~はない。「復」はここでは否定の強調。
標格:すぐれた姿、風格
天真:生まれながらの純粋な性質

餘論

『青淵詩存』によれば明治20年前後の作となっています。ただ、明治21年6月には慶喜は従一位に昇るので、それ以前の詩ということになります。

文字通りには富士山を詠んだ詩ですが、わざわざ「徳川慶喜公にたてまつった」とことわっている以上、富士山の高潔な姿をかつての主君慶喜になぞらえていることは明らかです。渋沢から見た慶喜の人物像はまさにこの詩の富士山そのものだったのでしょう。