高杉晋作の漢詩 戯作(戯れに作る)

作者

原文

戯作

細君將到我閑居
妾女胸間患有餘
從是两花競艷美
主人拱手意何如

訓読

戯れに作る

細君 将に到らんとす 我が閑居
妾女の胸間 患(うれ)ひ余り有り
是れより両花 艶美を競ふ
主人 手を拱いて意は何如(いかん)

たわむれに作った詩

うちのカミさんが別宅にもうすぐやって来てしまう
愛人のおうのの胸中は心配でいっぱいだろう
これから花のような二人が美しさを競うことになるのだが
さて、私は手をこまねいてどんな気持ちでいたらいいのやら

細君:自分の妻の謙称。高杉の妻、雅子。井上平右衛門の次女で、藩内一と評判の美女であった。万延元年(1860年)、16歳のときに高杉と結婚した。
閑居:静かな住まい。高杉が愛人のおうのを囲っていた別宅。
妾女:めかけ。高杉の愛人のおうの。天保14年(1843年)生。11歳で下関の妓楼堺屋に売られ、15歳で芸妓となった。文久3年(1863年)に高杉と出会い、高杉に身請けされて同居するようになる。晋作没後、剃髪して谷梅処と名乗った。
:憂い。悩み。心配。
两花:ふたつの花。つまり、妻・雅子と愛人おうの。
艷美:あでやかな美しさ。
主人:高杉自身のこと。
拱手:両手を胸の前で重ね合わせて敬礼する。転じて、手をつかねたままで何もしないさま。

餘論

慶應2年2月(1866年4月)、高杉の正妻の雅子が息子の梅之進(のちの高杉東一)を連れて、高杉が愛人のおうのと暮らしている下関の住まいを訪ねてきたときに、高杉が詠んだ詩です。そんな修羅場を楽しむかのような詩を作るところが高杉の真骨頂ではありますが、もし現代の政治家や芸能人が同じことをしたら炎上必至でしょう。

「防長(周防と長門、すなわち長州藩領内)一」と評判の美女、雅子を妻に迎えた高杉ですが、雅子と暮らしたのは1年ほどだけでした。これに対し、愛人のおうのは身請けされたあと、ずっと高杉と行動をともにし、高杉が命をねらわれて四国へ逃亡していた際も同行しています(→「西浦港寄内(西浦港にて内に寄す)」)。

現代と違って、当時は側室や妾を持つことが認められていた時代ですが、だからといって、正室と側室の間、正妻と妾の間になんの感情的なわだかまりもない、というわけにはなかなかいかず、場合によっては凄まじい嫉妬と憎悪がぶつかり合うことが少なくありませんでした。大奥などはその最たるものでしょう。雅子とおうのは、このときが初対面でしたから、はたしてどのような関係になるのか、高杉もハラハラしたことでしょう。実際の対面については、高杉は桂小五郎(木戸孝允)宛ての手紙に「気まずかった」と書き記していますが、気まずいくらいで済んだということは、表立ってもめることもなく、表面上は平和裏に対面が終わったのでしょう。もちろん、心の中はわかりませんが。