森鷗外の漢詩 次韻書感 其一(次韻して感を書す 其の一)

作者


原文

次韻書感 其一

群胡遠至自西洋
雪壓關山糧道長
盪滌何憂無祕策
唯悲塗炭害民良

訓読

次韻して感を書す 其の一

群胡 遠く西洋より至り
雪は関山を圧し 糧道は長し
盪滌 何ぞ憂へん 秘策無きを
唯だ悲しむ 塗炭の民良を害するを

次韻して思いを記す

ロシア兵は群れをなして遠くヨーロッパから満州までやってきているが
交通の要衝たる山々を押しつぶすほどに大雪が積もり、補給路は長く伸び切っている
したがって彼らを撃退してこの地を洗い清めるのに秘策がないことを心配する必要などない(補給の続かないロシア軍はいずれ崩壊するだろう)
ただ悲しむのは、罪のない良民たちが塗炭の苦しみを味わっていることだ

次韻:他人の詠んだ詩で用いているのと同じ韻字を同じ配置で用いて詩を読むこと。この詩の場合、「洋」「長」「良」の3つの韻字が後述の宿寿山という人物の原詩と同じ配列で用いられている。
群胡:群れをなす野蛮人。ロシアの大軍のこと。「胡」はもともと中国北方の異民族をさげすんで呼んだ言葉。
關山:関所のある山々。関所と山々。交通の要衝。
盪滌:あらいすすぐ。洗い清める。ロシア軍を撃退すること。なお、転句は意味の上からは本来「何憂盪滌無祕策(何ぞ憂へん 盪滌に秘策無きを)」となるべきところ、平仄の関係で倒置されている。
塗炭:泥にまみれ、炭火に焼かれる苦しみ。非常な苦難。
民良:「良民」に同じ。押韻の都合で倒置したもの。

餘論

日露戦争に軍医として従軍していた鷗外が、明治38年(1905年)3月、奉天会戦の勝利前後に詠んだとみられる詩です。当時、鷗外は当地の宿寿山という秀才(科挙の一次試験「県試」の合格者)の家に滞在していました。その宿寿山から詩を贈られた際に、次韻した詩を三首詠んで応えたうちの最初の一首がこの詩です。なお、宿寿山の原詩は以下のとおりです。「洋」「長」「良」の3つの韻字の配列が鷗外の詩と全く同じであることがわかるでしょう。

呈森大人(森大人に呈す)

奇才鐘毓遡東洋
(奇才 鐘毓すること 東洋に遡る)
着手成春技最長
(着手すれば春を成し 技 最も長し)
艸木皆兵無與敵
(草木 皆 兵にして 与に敵するもの無し)
醫功不亜將功良
(医功 亜たらず 将功の良きに)

 

さて、鷗外の詩ですが、日露戦争と現在のロシアのウクライナ侵略を同一視できないことは当然ですが、転結の二句に関しては、現下のウクライナ情勢にそのまま当てはまりそうです。国際社会のウクライナ支援が途絶えない限り、いずれロシアの国力が続かなくなるでしょうが、それまでの間、罪のないウクライナの民の塗炭の苦しみは続いてしまいます。結局、一日も早くロシア軍を敗退させる以外に彼らを救う手立てはないわけですが、そのための道筋が見えません。もし鷗外が生きていたら何と詠むでしょうか。