山内容堂の漢詩(2) 即事
作者
原文
即事
籬菊花開又値秋
金波凸處酒如油
卽今誰決海防策
照燭閒看大地球
訓読
即事
籬菊 花開きて 又た秋に値ふ
金波 凸なる処 酒 油の如し
即今 誰か決せん 海防の策
燭に照らして間(しづ)かに看る 大地球
訳
事にふれて
まがきの菊が花開いて今年もまた秋がめぐってきた
月に照らされて輝く波が沸き上がる海に臨んで飲む酒は油のように濃厚だ
目下、国を守る海防の策を決するのは誰であろうか
私もまた灯火で照らしながら心静かに地球儀を眺めるのだ
注
即事:事にふれて、その場のことを題材として作った詩。
金波:月に照らされて輝く波。
凸:出る。突き出る。ここでは波が起こって海面が盛り上がっていること。
閒:しずかに。「閑」に同じ。
大地球:文字通りには地球そのものとなるが、ここは当然、地球儀か世界地図である。
餘論
容堂公没後150年にあたって、その詩を紹介します。容堂公の詩と言えば、晩年に家産を傾けるほど入り浸った花街の風情を軽妙洒脱に描いた「墨水竹枝」の連作が有名ですが、今回は没後150年に敬意を表して、幕末四賢侯の一人にふさわしい真面目な詩を取り上げました。
『鯨海酔侯集』での配列にしたがえば、安政4年9月20日(1857年11月6日)から28日の間に詠まれた詩です。安政元年に締結された日米和親条約にもとづき初代日本総領事となったタウンゼント・ハリスが江戸城に登城して将軍徳川家定に謁見し、通商条約の締結を求める国書を手渡す安政4年10月21日(1857年12月7日)の直前、すでにハリスが下田を出て江戸に到着し、幕府との間で将軍謁見の日程交渉がおこなわれていた時期にあたります。このとき容堂は参勤交代で江戸にいましたので、このような状勢についてある程度情報を得ていたことでしょう。また、容堂がこの時点で情報を得ていたかどうかはわかりませんが、前年には清国と英仏両国との間でアロー戦争(1856~1860)が勃発しており、日本を取り巻く東アジア情勢は緊迫の度を増していました。
嘉永6年(1853年)のペリー来航後、幕府が全国諸大名から意見を求めた際、容堂は吉田東洋が起草した意見書を幕府に提出していますし、その後、松平春嶽や島津斉彬とともに雄藩藩主として幕政改革を訴え、国政に影響力を持つ有力大名のひとりとなっていました。転句の「誰か決せん 海防の策」という問いに「我こそが」という自負が含まれていることは明らかでしょう。
前半の穏やかな情景描写が転句で一転する構成の成否については意見が分かれるかもしれませんが、承句で海が描かれたことにより転句の海防につながるとみれば、そこまで不自然ではないと個人的には思います。
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