貞明皇后の漢詩 即事

作者

貞明皇后

原文

即事

連日南風樹下樓
聚頭黙坐暗懷憂
狂雷驟雨一過後
切切蟬聲亦帶愁

訓読

即事

連日の南風 樹下の楼
聚頭 黙坐して 暗く憂ひを懐く
狂雷 驟雨 一過の後
切切たる蝉声も亦た愁ひを帯ぶ

事にふれて

木陰の宮殿には連日の夏の南風が吹き
皆が顔を見合わせながら言葉少なに坐って深く憂いをいだいている
荒れ狂う雷と激しいにわか雨が過ぎ去った後
切々として鳴く蝉の声もまた悲しみを帯びて聞こえる

即事:事にふれて、その場のことを題材として作った詩。
聚頭:頭をあつめる。顔を寄せ合う。
驟雨:にわか雨
切切:思いが強く心に迫るさま
憂・愁:どちらも「うれい」と訓むが、「憂」は心配や悩みが主で、「愁」は悲しみやつらさが主。

餘論

詩題や自注による説明がないため、背景を知らないと詳細が理解できない詩ですが、それでも一読すれば全体にただようただならぬ雰囲気と作者の深い憂愁を感じさせられます。

この詩は明治45年7月、明治天皇のご病状が悪化し、当時、皇太子妃であった貞明皇后が昭憲皇太后(当時皇后)や各内親王とともにご看病にあたられていた際に詠まれた詩です。

「即事」とか「即目」という題は、ことにふれて、また目にふれたものを、即興で詠んだという意味ですが、実際には時間をかけて推敲して練り上げた詩にあえてこれらの題をつけてさりげなさを装うこともあります。しかし、この詩に関しては、文字通り即興で出来上がったのではないかと感じられます。目立ったレトリックもなく、読者をうならせるような仕掛けもありません。しかし素直に詠んだ景色と心情とが見事に呼応して何の不自然さもなく、ただまっすぐに読者の心を打ちます。

貞明皇后が参内してご看病にあたられるようになったのが7月20日、当時の天候は連日30℃を超える暑さが続いていましたが、23日になって雨が降り、暑さが和らいだといいますので、この詩は24日、25日あたりに詠まれたのでしょう。非常時に、しかもご自身もご看護で疲労のさなか、これだけの詩を詠まれる才能に驚くばかりです。