渋沢栄一の漢詩 哭乃木将軍(乃木将軍を哭す)

作者


原文

哭乃木将軍

遺墨淋漓泣鬼神
奉公一意了天真
休言國亂忠臣見
聖代看斯壮烈人

訓読

乃木将軍を哭す

遺墨 淋漓として 鬼神を泣かしむ
奉公の一意 了(つひ)に天真
言ふを休めよ 国乱れて忠臣見(あらは)ると
聖代 看る 斯の壮烈の人

乃木将軍を悼んで泣く

遺書の筆跡は力強く勢いがあり、その内容には鬼神も涙するだろう
国家と主君に忠義を尽くす一途な思いは、全くもって天賦の純粋な心なのだ
国が乱れた時にはじめて忠臣があらわれるのだ、などと言うのをやめよ
今この素晴らしい御代に、これほど激烈な忠義の人を見ることができたのだから

哭:人の氏を悲しんで声をあげて泣く。
乃木将軍:乃木希典(1849~1912)。日露戦争で第三軍司令官として、難攻不落を誇ったロシアの旅順要塞を陥落させた。その武功に加え、高潔な人格に対する賞賛、二人の息子を戦争で失ったことへの同情もあいまって、日露戦の英雄として国民から広く尊敬された。降伏した敵将ステッセルらへの紳士的で寛大な処遇などから、国際的にも高く評価された。しかし、本人は旅順攻囲戦で多数の将兵を死なせたことへの自責の念から、明治天皇への復命の際、自刃して罪を償いたいと奏上したが、天皇から「どうしても死ぬというなら朕が世を去った後にせよ」ととどめられたという。大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の夜、静子夫人とともに自刃して亡くなった。
遺墨:故人の筆跡、死後に残された書画など。ここでは詩の内容からして遺書の筆跡であろう。乃木は前日から当日にかけていくつかの遺書や辞世の歌を作成した上で自刃に臨んだ。
淋漓:血や汗、墨汁など液体のしたたるさま。転じて、筆勢のさかんなさま。
奉公:おおやけのために尽くす。主君のために尽くす。
了:ついに。結局。まったく。
天真:天から与えられた純粋な性質。生まれつきの素直な心。
國亂忠臣見:国家が乱れて存亡の危機になると忠義の臣があらわれて活躍するが、国がよく治まって平穏無事であれば忠臣の出番はない、という逆説。『老子』に「国家昏亂有忠臣、六親不和有孝慈」とある。また、唐の太宗に仕えた名臣魏徴の「臣をして良臣たらしめよ、臣をして忠臣たらしむることなかれ」という言葉も有名。 《貞観政要・直諫》「徵乃拜而言曰、臣以身許國直道而行必不敢有所欺負。但願陛下使臣爲良臣、勿使臣爲忠臣。太宗曰、忠良有異乎。徵曰、良臣使身獲美名、君受顯號、子孫𫝊世福禄無疆。忠臣身受誅夷、君陷大惡、家國並喪、獨有其名。以此而言相去遠」(徴乃ち拝して言ひて曰く「臣、身を以て国に許し道を直くして行ふ。必ず敢へて欺負する所有らず。但だ願はくは、陛下、臣をして良臣たらしめよ、臣をして忠臣たらしむること勿れ」と。太宗曰く「忠良異なること有るか」と。徴曰く「良臣は身をして美名を獲しめ、君は顕号を受け、子孫は世に伝へて福禄は疆り無し。忠臣は身に誅夷を受け、君は大悪に陥り、家国並びに喪び、独り其の名のみ有り。此れを以てして言へば相ひ去ること遠し」と。)
聖代:聖天子の御代。名君による素晴らしい統治がおこなわれている時代。
壮烈:意気盛んで勇ましい。ここでは、忠義の心が激烈であるというニュアンスであろう。

餘論

当サイトをご覧の方から、コメントにてこの詩の解釈について依頼をいただきましたので、早速取り上げさせていただきました。拙い訳ですがお役に立てれば幸いです。

乃木将軍の殉死は当時の国民に大きな衝撃を与えました。若い世代の一部には「前近代的行為」として冷ややかに見る態度もあったと言いますが、大部分の国民は深く嘆き悲しみ、葬儀の際は、20万人もの人が沿道を埋め尽くしました。渋沢もまたそのような国民の一人であり、この詩からは乃木将軍への深い尊敬の念が伝わってきます。