榎本武揚の漢詩 囚中作(囚中の作)

作者


原文

囚中作

自歎身世與心違
胸裡汗靑未治饑
天道耐疑又耐怨
人間誰是又誰非
故朋失路東西沒
老母在堂魚雁稀
入夢昨冬酣戰日
劔花和雪亂紛飛

訓読

囚中の作

自ら歎く 身世の心と違(たが)ふを
胸裡の汗青 未だ饑ゑを治さず
天道 疑ふに耐へ 又た怨むに耐へたり
人間 誰か是にして 又た誰か非なる
故朋 路を失って 東西に没し
老母 堂に在るも 魚雁 稀なり
夢に入れば  昨冬 酣戦の日
剣花 雪に和して 乱れ紛飛す

獄中での作

自ら嘆くのは、我が身の上がもともとの志とたがえてしまったこと
胸の内に読みたくわえた書物では心の飢えをまだ癒やせない
今や、天の道理は疑うに足るものであり、恨むに足るものだ
この世の中でいったい誰が正しく、誰が間違っているだろうか
昔なじみの友たちは行先を見失い、東で西で命を落とした
わが老母は家にあって健在だが、その手紙が来ることはほとんどなくなった
夢にみるのは、去年の冬、五稜郭での戦の真っただ中のころ
刀から出る火花が雪に入り混じって乱れ飛んでいた光景だ

身世:この身とこの世。わが身一代。
汗靑:油を抜いた竹の札。汗簡。竹を火にあぶり、油を抜いて青みを抜き去り、文字を書けるようにしたもの。紙の普及以前、書物の材料として用いられたことから、転じて、文書、書物、歴史書などの意味をあらわす。 文天祥《過零丁洋詩》「留取丹心照汗靑」
饑:『明治英傑詩纂』では「餞」に作るが、「餞」では韻が合わないので明らかに誤字である。上平五微韻で「餞」に似ている字となると「饑」「譏」あたりかと思われるが、ここではとりあえず「饑」として解釈した。
天道:天の道理。この頷聯は司馬遷の「天道是か非か」という言葉を踏まえている。 司馬遷《史記・伯夷傳》「余甚惑焉。儻所謂天道是邪、非邪。」
耐:もちこたえられる、の意から、~するのに足る、~することができる、の意になる
人間:人の世の中。
失路:道を見失って迷う。人生の進む道を間違う。
老母:榎本の母、こと。榎本出獄前の明治4年(1871年)8月に亡くなっている。
堂:家の表座敷。
魚雁:手紙。魚(鯉)と雁はともに手紙を運んだ故事があることから。『明治英傑詩纂』では「漁雁」に作るが、文脈から考えても明らかに「魚雁」の誤り。 《飮馬長城窟行(樂府)》「客從遠方來 遺我雙鯉魚 呼兒烹鯉魚 中有尺素書」 《漢書・蘇武傳》「教使者謂單于、言天子射上林中、得雁、足有係帛書。」
酣戰:さかんに戦うこと。戦いの真っ最中。
劔花:剣と剣が打ち合って出る火花
紛飛:紛々として飛び散るさま

餘論

新政府軍に最後まで抵抗した旧幕府軍が五稜郭で樹立したいわゆる「箱館政権」の総裁だった榎本は、明治2年5月、新政府への降伏(→参考:「出五稜郭(榎本武揚)」)の後、東京へ送還されて投獄され、明治5年1月に特赦で出獄するまで約2年半を獄中ですごしました。詩中に箱館戦争を「昨冬」と述べていることから、この詩は明治2年(1969年)中か、翌明治3年(1970年)の年初あたりまでに作られたものでしょう。「又」字の重複は改めようがあると思いますが、全体としてはよく練られた七言律詩だと思います。

ただ、二句目については誤字のことも含め、疑問が残ります。「餞」が間違いであることは明らかですが、正しくは何の字だったのかがわかりません。ここでは「饑」であると仮定して解釈しましたが、この解釈でよいかどうか、すっきりしません。

司馬遷にならって「天道」への怨みを述べて「誰が是で誰が非か」と問いかけているのは、もちろん、「自分たちこそが正しく、新政府のほうが間違っている」という叫びにほかなりません。収監中にこんな詩を作って、もし新政府の目に触れたら、助かる命も助からなくなるでしょうが、榎本としてはもう覚悟はできていたのかもしれません。