作者


原文

巴里 其二

那帝宮邊花闘紅
凱旋門外月橫空
回頭三十年前事
都在有無依約中

訓読

巴里 其の二

那帝の宮辺 花 紅を闘はし
凱旋門外 月 空に横たはる
頭を回らせば 三十年前の事
都て 有無 依約の中に在り

パリ その二

かつてナポレオン3世の宮殿があった辺りでは花々が競うように赤く咲きほこり
凱旋門の向こうでは月が夜空にかかる
振り返ってみると、三十余年前パリで過ごした頃のことは
すべてが、有るのか無いのかぼんやりと霧の中のようだ

巴里:パリ。フランスの首都。
那帝:フランス皇帝ナポレオン3世(在位1852~1870年)。シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。ナポレオン1世の甥。ナポレオン1世失脚後は、武装蜂起失敗による獄中生活や国外逃亡生活を長く送っていたが、1848年、2月革命でオルレアン家の7月王政が崩壊し第2共和政が成立すると、9月に憲法制定議会議員補欠選挙、ついで12月には大統領選挙に当選した。1852年1月クーデターにより独裁体制を確立し、国民投票を経て12月には皇帝に即位した(第2帝政)。その治世に、パリ改造や鉄道網整備などの近代化改革を進め、クリミア戦争参戦や植民地拡大などでフランスの国際的地位を向上させたが、メキシコ出兵(1862~67年)の失敗により威信は低下、1870年、普仏戦争に敗れてプロイセン軍の捕虜となり第2帝政は崩壊した。翌71年3月、プロイセン軍から釈放されて英国に亡命し、皇帝への復位を目指したが、73年1月病死した。
宮:テュイルリー宮殿。フランス革命期以降、フランス政治の中心、元首の住居となった。ナポレオン3世も皇帝即位後、テュイルリー宮殿に居住し、国賓室を造成して各種儀典の舞台とした。パリ万博の際の各国使節の歓迎式典もテュイルリー宮殿で行われた。1871年、パリ・コミューン鎮圧のさなか外壁を残して焼失し、1883年には外壁も撤去されて、その後は庭園のみが現在まで残っている。
ピエール・ファン・エルフン『1867年6月10日、テュイルリー庭園での夜会に参加中の君主たち』
まさに渋沢が訪れた頃のテュイルリー宮殿での夜会を描いた絵画
(Pierre Tetar van Elven - カルナヴァレ博物館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22288975による)

凱旋門:現在、日本で「凱旋門」といえばシャルル・ド・ゴール広場(旧エトワール広場)のエトワール凱旋門のことを指すが、ここでは起句との関係から考えて、テュイルリー宮殿の正門となっていたカルーゼル凱旋門のことであろう。アウステルリッツの三帝会戦(1805年)でのナポレオン1世の勝利を祝して1806~08年にかけて建設された。

回頭:こうべをめぐらす。ふりかえって後ろを見る。過去のことを振り返って思う。
三十年前事:この詩の35年前、渋沢は、将軍徳川慶喜の名代としてパリ万博に派遣された徳川昭武に随行してパリを訪れた。
依約:ほのかに、ぼんやりと見えるさま。

餘論

前記事で「其の一」を取り上げた「巴里」詩の二首目です。

渋沢が最初にパリを訪れた1867年から再訪した1902年までの間に、日本と同様、フランスも大きく変わりました。徳川昭武がテュイルリー宮殿で謁見したナポレオン3世はその3年後、普仏戦争に敗れて失脚し帝政も崩壊しました。渋沢自身は謁見式には同行しませんでしたが、舞踏会などテュイルリー宮殿でのイベントの際に昭武に同行しており、宮殿の華やかな姿を目に焼き付けたことでしょう。その宮殿も1871年に焼失し、1902年の再訪時には残された庭園に花が咲き誇るばかり。宮殿の前に正門として立っていた凱旋門は残っているものの、宮殿がなくなってしまった後に凱旋門だけが月に照らされているというのは、宮殿があった当時を知る者からすれば寂しさを増す光景に見えたに違いありません。