高杉晋作の漢詩 七月十七日發馬關赴吉田驛途上過壇浦前田兩砲臺有感(七月十七日、馬関を発し吉田駅に赴く途上、壇の浦・前田両砲台を過ぎて感有り)

作者


原文

七月十七日發馬關赴吉田驛途上過壇浦前田兩砲臺有感

此是奇兵古戰場
砲臺臺上草茫茫
同人埋骨知何處
觸岸波聲訴恨長

訓読

七月十七日、馬関を発し吉田駅に赴く途上、壇の浦・前田両砲台を過ぎて感有り

此れは是れ奇兵の古戦場
砲台台上 草 茫茫たり
同人 骨を埋むるは知んぬ何れの処ぞ
岸に触るる波声 恨みを訴えて長し

七月十七日、下関を出発し吉田宿へおもむく途上、壇ノ浦と前田の砲台跡を通り過ぎて感じることがあった

ここはかつて馬関戦争で奇兵隊が戦った古戦場
今では台場の上に大砲はなく、ただ草がどこまでも茂っている
仲間たちが骨を埋めているのはどのあたりであろうか
岸に打ち寄せる波の音が恨みを訴えるかのように長く続いている

七月十七日:慶應元年七月十七日(1865年9月6日)。
馬關:下関。別名を赤間関(あかまがせき)と言い、これを「赤馬関」とも書いたことから、唐風に「馬関」とも呼んだ。
吉田驛:吉田宿。吉田の宿場町。「駅」は馬を乗り換える宿場。この年の4月、奇兵隊は吉田宿の庄屋末富家に本陣を置いていた。
壇浦前田兩砲臺:幕末、長州藩が攘夷のため関門海峡沿いに築造した砲台群の一部。文久3年5月(1863年6月)、長州藩は攘夷実行のためこの台場から外国船を砲撃し、その報復としてフランス軍艦が台場を砲撃し破壊した(下関事件)。長州藩は前田台場を修復・増強してさらなる攘夷実行に備えたが、翌元治元年8月(1864年9月)、英・仏・蘭・米四国連合艦隊が下関を攻撃(馬関戦争)、台場は徹底的な砲撃を受け、連合軍の陸戦隊により占拠・破壊された。長州藩は惨敗して連合軍と講和し、台場の大砲は、戦利品として連合軍によって持ち去られた。
奇兵:奇兵隊。下関事件後、藩から下関の防衛を任された高杉が、身分によらない志願兵によって組織した戦闘部隊。馬関戦争時、長州藩の正規兵の主力は京都へ派遣されていたこともあり、奇兵隊が下関防衛の主力を担ったが、四国連合軍との戦力差は埋めがたく、惨敗した。
茫茫:どこまでも遠く続いているさま。
同人:同志の人。馬関戦争で亡くなった奇兵隊の仲間。
知何處:「知」のあとに疑問詞が来ると、「知」はむしろ「不知」の意味になる。「どこであろうか(わからない)」の意。「どこなのか知っている」の意味ではない。

餘論

第一次長州征討の終了(元治元年12月27日 1865年1月24日)と、功山寺挙兵に続く藩内クーデターの成功(元治2年2月14日 1865年3月11日)を経て、武備恭順に藩論を統一した長州藩が、幕府の長州再征に備えて抗幕体制の構築と軍備の改革・増強を図っている時期の詩です。

高杉自身は、藩内クーデターの口火を切った功労者であるにも関わらず、下関開港を推進しようとしたため攘夷派から命を狙われ、4月には日柳燕石(讃岐の侠客・志士)を頼って四国に逃れる羽目になりました。桂小五郎の助力で長州に戻れたのは、この詩の詠まれる前月の6月のことです。

そして、この詩が詠まれた7月には、長州藩は、薩摩藩の名義で英国から小銃を購入すべく井上馨・伊藤博文を長崎へ送り込んでいます。馬関戦争の頃には考えられなかったことであり、わずか1年の間に情勢は大きく変わっていました。文久2年(1862年)に上海へ渡航して西欧列強の実力を目の当たりにしていた高杉は、早い段階で攘夷は不可能と悟っていたと思われますが、彼一人の力で攘夷の流れを押しとどめられるわけもなく、まして藩命で下関の防備を任された以上、どれだけ無謀とわかっていても戦わないわけにはいかなかったでしょう。それだけに多くの仲間の命を犠牲にした「恨み」は複雑なものだったと思います。

高杉の詩は措辞に難があることが多いのですが(おそらく大して推敲に時間をかけてなかったのでしょう)、この詩は比較的穏当な部類だと思います。ただ、結句の「觸岸」はどうもひっかかります。「波聲」と続くことから考えても「打岸」にするのが妥当でしょう。