榎本武揚の漢詩(4) 長林弔列王之墓(長林にて列王の墓を弔ふ)
作者
原文
長林吊列王之墓
長林烟雨鎖孤栖
末路英雄意轉迷
今日弔來人不見
覇王樹畔列王啼
訓読
長林にて列王の墓を弔ふ
長林の烟雨 孤栖を鎖す
末路の英雄 意 転(うた)た迷ふ
今日 弔ひ来たれば 人 見えず
覇王樹畔 列王 啼く
訳
ロングウッドでナポレオンの墓をおとずれてとむらう
ロングウッドの霧雨はナポレオンの孤独な住まいを閉ざすように降り
無念の末路を迎えた英雄の思いはますます滅入ったことだろう
今こうして英雄をとむらいに来てみれば、他に人はみあたらず
サボテンのほとりで墓の下のナポレオンが泣いているかのように思える
注
長林:ロングウッドの意訳。英領セントヘレナ島に流罪となったナポレオンが幽閉されていた館「ロングウッド・ハウス」のこと。甥のナポレオン3世が第2帝政開始後、英国と交渉して館と墓所の引き渡しを求め、1858年、英国は7100ポンドでフランスに売却した。したがって、榎本が訪れたとき、館と墓所はフランスの管轄下にあった。また、ナポレオンの遺体は1840年にフランスに返還されたため、このときセントヘレナの墓所にナポレオンの遺体はもはや存在していない。
列王:ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)。江戸時代後期の日本で「那波列(烈)翁」「那破倫」「拿(奈)勃列翁」などと表記し、「那翁」「奈翁」「列翁」などと略した。
烟雨:けぶるように降る雨。霧雨。
轉:うたた。いよいよ。ますます。
覇王樹:サボテン
啼:涙を流し声をあげて泣く。もしくは、鳥や動物が鳴く。
餘論
先月の5月5日はナポレオン没後200年だったので、ナポレオンに関する漢詩を取り上げます。
海軍留学生としてオランダへ派遣された榎本武揚が、航海の途中、文久3年2月(1863年3月)、セントヘレナ島に上陸し、ナポレオンが幽閉されていたロングウッド・ハウスを訪れた際に詠んだ詩です。ナポレオン生存中から、すでに長崎出島に来航するオランダ商船を通じて江戸時代の日本にナポレオンについての情報が伝えられており、幕末には異国の英雄として広く知られて、幕臣から尊攘の志士まで多くの人が影響を受けていました。(→ 伊藤博文『丁卯初夏與石川等諸兄話時事席上即賦一 絶以呈』)
このときの航海日記である『渡蘭日記』("Journaal van Batavia naar St. Helena" バタビアからセントヘレナまでの日記)は、セントヘレナ島到着までで擱筆しており、この詩は収められていませんが、『渡蘭日記』を収録する『榎本武揚シベリア日記』(講談社学術文庫)に収載された広瀬彦太氏の解説にこの詩が紹介されています(訓読・和訳なし)。そこでは、詩題はなく、結句の末尾が「列王鳴」になっています。「鳴」は庚韻で、斉韻である「栖」「迷」とは韻が合いません。『明治英傑詩纂』(明治25年11月 博文館刊)では「列王啼」となっており、これなら「栖」「迷」「啼」すべて斉韻でつじつまが合うため、ここでは「列王啼」を採用しました。また詩題も『明治英傑詩纂』収載のものを採用しました。
自筆稿を確認できないので、榎本自身が「鳴」と「啼」どちらに作っていたのかはわかりません。もし「鳴」にしていたとすると、押韻ミスということになりますが、それ以上に、意味がよくわからなくなります。「啼」と異なり「鳴」には「人が泣く」という意味はないので、「列王」という鳥か動物が鳴いている、という意味にしかなりません。ナポレオンフィッシュならぬナポレオンバードと現地で呼ばれる鳥がもし存在するなら、その鳥が鳴いているという意味になるでしょうが、僕の調べた限りでは、そのような鳥の情報は得られませんでした。
以上を踏まえたうえで、ここでは「墓の下のナポレオンが泣いている」という意味に解しました。他に良い案があればご教示ください。
なお、ナポレオンの略称としては「那翁」や「列翁」のほうが一般的です(榎本自身も日記本文では「列翁」と記しています)が、この詩では「覇王樹」の「王」と対応させるため「列王」としたのでしょう。「覇王樹」の「覇王」にナポレオンのイメージを重ねていることは言うまでもありません。
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