作者


原文

金州城外作

山川草木轉荒涼
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽

訓読

金州城外の作

山川草木 転た荒涼
十里 風は腥し 新戦場
征馬 前まず 人 語らず
金州城外 斜陽に立つ

金州城外の作

山河も草木もますますもって荒涼たるありさまで
戦闘が終わったばかりの戦場は十里四方にわたって風が血生臭い
この光景を前にして軍馬は進まず人も無言で何も語らない
金州城の外で私は夕陽の中にたたずんでいる

金州:旅順半島の付け根、旅順の北側に位置した城塞都市。1898年に旅順・大連を租借したロシアは金州城の南にある南山の要塞化を進めて旅順・大連の防御を強化していた。日露開戦後の1904年5月、日本陸軍第二軍は遼東半島に上陸し、三回に渡る攻撃で金州城を攻略したのち、南山への攻撃を開始した。初めて体験する近代要塞攻略に手こずった日本軍は、敵軍の倍以上の戦力を有していたにも関わらず、総兵力の一割を超える約4千の死傷者を出す苦戦となったが、海軍による艦砲射撃による援護も得て5月26日に南山を制圧した。南山を放棄したロシア軍は一定の抵抗を示しつつ旅順へ退却した。乃木の長男勝典は第二軍に所属していたが、南山攻撃でロシア軍の銃弾を腹部に受けて27日に戦死している。
轉:ますます、いよいよ
十里:漢詩文における一里は約400mなので十里は約4km
征馬:戦場で乗る馬。戦馬。軍馬。
前:すすむ。「進」は仄声なのでここに使えないため、平声の「前」を用いている。

餘論

乃木将軍の詩のうちで、間違いなく最も人口に膾炙した詩ですが、このサイトではまだ紹介していませんでした。

金州・南山の戦いが行われていた1904年5月、乃木将軍自身は第三軍司令官として、まだ日本で出発を待っていました。長男勝典少尉の戦死の報も日本で受け取っています。6月6日に遼東半島に上陸した乃木将軍は、翌日に金州・南山の戦場を視察し、その際にこの詩を詠んだとされます。

詩の完成後、将軍は葉書にこの詩をしたためて東京に送り、野口寧斎に添削を請うたものの、寧斎は一字の訂正もしなかったと聞きます。つまりこの詩はプロの詩人の手が入ったものではなく、将軍自身の原作のままということです。乃木将軍はプロの詩人ではないので、遺された詩の中には平仄押韻や措辞に問題のあるものもまま見受けられますが、この詩に関しては確かに全く瑕疵が見当たりません。寧斎ならずとも、一字の訂正の余地もなしと判断するでしょう。

詩の内容も言葉も至って平易で、語注も訳も不要なほどです。にもかかわらず、全篇に無駄も緩みもなく、思いが漲っていてしかも抑制的で、それがかえって読者の心を打つ格調高さにつながっています。夕日の中、無言で生々しい戦場を眺める乃木将軍の心の中を占めたのは、長男勝典をはじめとする戦死者たちへの鎮魂の思いであったことは間違いありません。勝典の戦死の報を受け取った際には、妻・静子に向けて「名誉の戦死を喜べ」と電報を打ったと伝わりますが、公的な立場を離れた一人の人間として、親が息子の戦死を悲しまないわけがありません。そのような私的な感情は詩人乃木石樵がこの詩の中に封じ込めることによって、軍人乃木希典は公人としての立場に徹することができたのかもしれません。

この詩を読むと、真の名詩は、作者が熟練の詩人であろうとなかろうと、生まれる時には生まれるべくして生まれるものであり、高度なレトリックの技術も機知も必要としないということを思い知らされ、ある意味、打ちのめされる思いがします。