作者

足利義昭

原文

避亂泛舟江州湖上

落魄江湖暗結愁
孤舟一夜思悠悠
天公亦慨吾生否
月白蘆花淺水秋

訓読

乱を避けて舟を江州の湖上に泛ぶ

江湖に落魄して 暗かに愁ひを結び
孤舟 一夜 思ひ悠悠たり
天公も亦た吾が生を慨くや否や
月は白し 蘆花 浅水の秋

戦乱を避けて近江の琵琶湖上に船を浮かべる

落ちぶれてあちこちの地方をさすらっていると、人知れず愁いの思いが湧き
寄る辺ない孤独な舟で一夜を過ごすにつけ、思いは悲しみに沈む
天もまたこんな私の命を嘆いてくれるのだろうか
白い月光が蘆の花が咲く浅瀬の秋を照らし出している

避亂:永禄8年(1565年)5月19日、室町幕府13代将軍足利義輝が三好義継・松永久通(久秀の子)らに襲撃され殺害された(永禄の変)。義輝の弟で当時興福寺一乗院門跡であった覚慶(のちの足利義昭)は松永久秀らによって興福寺に幽閉されたが、7月28日、義輝の近臣であった細川藤孝らの画策により脱出に成功し、木津川をさかのぼって伊賀から近江国に入った。近江国甲賀郡の和田に落ち着いた覚慶は足利将軍家の当主となることを宣言し、11月には近江国野洲郡矢島(現・滋賀県守山市)に移って「矢島御所」と呼ばれる居館を設け、翌年2月にはここで還俗して義秋(のち義昭と改名)と名乗った。
江州:近江国。
湖上:琵琶湖上。
落魄:落ちぶれる。
江湖:本来の意味は文字通り、川と湖。転じて四方の各地、世の中(世間)。
暗:ひそかに。人知れず。
悠悠:のんびりしたさま、はるかに遠いさまなど、さまざまな様子の形容に用いるが、ここでは愁え悲しむさま。
慨:ほかに「怜」「憫」(いずれも「あわれむ」)とするものを見るが、少なくとも「怜」は平仄が合わない。『本朝一人一首』の神田香巌旧蔵本では「慨」であり、ここではそれに従う。

餘論

室町幕府最後の将軍足利義昭が、永禄の変の後、流離のさなかに詠んだ詩です。地理的な事情を勘案すれば、「琵琶湖に船を浮かべる」という詩題からして、琵琶湖畔の矢島まで進出してからの時期に詠まれたものと思われます。矢島に移ってからの義昭(当時は覚慶)は還俗、各地の大名へのはたらきかけ、朝廷工作、と兄の後を継いで将軍となるべく活発に動いており、この詩の沈み込んだ内容は当時の状況には合致しないようにも感じますが、確固たる支持勢力があるわけでもなく、先の見通せない不安定な立場には違いないわけで、詩を詠むとしたら、まあ、こんな内容になるかなあとも思います。実際、この後、三好氏が矢島御所を攻撃し、支持していた六角氏が離反の構えを見せたことで、義昭(当時は義秋)は矢島御所を捨て数人の供を連れて若狭へ移ることになるわけですから、「落魄江湖」というのも決して誇張ではないのです。