乃木希典の漢詩 伊豆に入り蛭子島を訪ぬ

作者


原文

入伊豆訪蛭子島

聞説將軍賢與明
源公覇業得人成
請看沿道幾村落
渾是当時英傑名

訓読

伊豆に入り蛭子島を訪ぬ

聞くならく 将軍の賢と明と
源公の覇業は人を得て成る
請ふ看よ 沿道の幾村落
渾て是れ 当時 英傑の名

伊豆に入って蛭ヶ小島を訪ねる

源頼朝の賢明さはかねてより聞くところだ
その覇業は配下に優れた人材を得たことによって成ったのである
見てごらん、沿道にはいくつか村落があるが
それらはすべて当時の英傑たちの名前なのだ

蛭子島:蛭ヶ小島。平治の乱の後、源頼朝が配流された地とされる史跡。現在、「蛭ヶ島公園」(静岡県伊豆の国市四日町)として整備されている。頼朝は平家打倒の挙兵までの約20年間をここで過ごし、その間に北条政子と結婚したと伝わる。『吾妻鏡』には「蛭島」と記述されているが、それが現在の蛭ヶ小島史跡の地に当たるのかどうか定かではない。「小島」というが海に浮かぶ島ではなく、当時は狩野川の中洲であった、あるいは、湿田の中の微高地であった、などの説がある。江戸時代の学者の推定に基づき、1790年に「蛭島碑記」を刻んだ石碑が建立され、現在も公園内に残っている。乃木が訪れた当時、公園はなかったが、石碑はあったはずである。
將軍:源頼朝。鎌倉を本拠として初の本格的な武家政権を樹立し、建久3年7月征夷大将軍に任じられた。
源公:頼朝のこと
英傑名:伊豆に存在する北条、伊東、河津、仁田などの地名は、同時にそれらの地を所領・根拠地とした武士たちの名字でもあった。地名と名字との関係については「氏(うじ)・姓(かばね)・名字(みょうじ)・実名(じつみょう)・仮名(けみょう)- 日本人の名前の歴史」を参照。

餘論

明治12年秋、乃木将軍が聯隊長をつとめる歩兵第一聯隊は、武蔵・相模・甲斐・伊豆・駿河の広範囲にわたって大規模な行軍演習をおこない、乃木将軍自身も将兵たちと行動をともにしました。

この詩は、そのさなかに伊豆の蛭ヶ小島を訪れ、源頼朝の覇業をしので詠んだ詩ですが、周辺の地名が当時活躍した武士たちの名字であることに着目したところに、独創性があります。今も残る地名から当時の武士たちの名前を想起し、彼らの苦闘のなかから東国武士たちの自治政権が生まれていった歴史をしのぶ乃木将軍自身、明治維新以前は武士(長府藩士)でした。武士の世を終わらせた明治政府のもとで軍人となった乃木将軍ですが、武士の歴史とその精神は忘れはしないという思いを感じさせる詩です。