徳川斉昭の漢詩 大楠公

作者


原文

大楠公

豹死留皮豈偶然
湊川遺跡水連天
人生有限名無盡
楠氏精忠萬古傳

訓読

大楠公

豹 死して皮を留むること 豈に偶然ならんや
湊川の遺跡 水 天に連なる
人生 限り有るも 名は尽くる無し
楠氏の精忠 万古に伝ふ

大楠公

ヒョウが死後に美しい毛皮を残すように死後に名を残すのは決して偶然でなしうるものではない
楠公の最期の地、湊川の遺跡では、今なお川面が遠く空までひろがっている
人生の長さには限りがあるが、楠公のような偉人の名声は絶えることはない
その純粋な忠義は永遠に語り継がれることだろう

大楠公:楠木正成(1294?~1336)。鎌倉末期から南北朝時代の武将。後醍醐天皇を奉じて卓越した軍略により鎌倉幕府打倒に功績をあげ、建武の中興を支えた。足利尊氏の離反後も後醍醐天皇への忠義を貫き、湊川の戦いで尊氏軍に敗れて自害した。
豹死留皮:豹は死んでも美しい毛皮を残す、人間の場合は死後に名を残すべきだという成句。 《五代史・王彦章傳》「豹死留皮、人死留名」
湊川:いわゆる旧湊川。現在の神戸市を流れていた川。楠木正成が足利尊氏に敗れて自害した地。湊川自体は、明治34年(1901年)に水害対策として下流の流路変更がなされ、湊川隧道を通って長田港に注ぐようになった(新湊川)が、この詩の詠まれた当時は当然、トンネルなどはなく、楠公の墓所の近くを流れる川面を見ることができた。
遺跡:江戸時代になって尼崎藩主青山幸利が正保3年(1646年)、楠公の墓所とされる場所に供養塔を建てた。元禄5年(1692年)には、水戸光圀によって今日まで残る墓碑が建立された。墓碑の表には光圀自身の筆による「嗚呼忠臣楠子之墓」という文字が刻まれている。さらにその後、明治5年5月24日(1872年6月29日)、墓所と殉節地を含む約七千坪を境内とする湊川神社が創建された。
精忠:一途なまごころ。少しも私心のない純粋な忠義。
萬古:はるか昔から。あるいは永遠に。ここでは後者。

餘論

今年は湊川神社創建150年なので、水戸烈公が大楠公を詠んだ詩を取り上げます。

この詩の詠まれた幕末当時は、湊川神社はまだありませんでしたが、尊皇思想の広まりとともに忠臣大楠公を顕彰する機運が高まっていました。楠公を崇拝する尊攘の志士たちにとってカリスマ的存在だったのが、この詩を詠んだ水戸の徳川斉昭です。それだけに、志士たちが楠公を詠んだ詩と比べても、格が違うという印象を受けます。

そもそも、詩中に詠まれる「遺跡」である楠公墓碑を建立したのは水戸藩第2代藩主徳川光圀であり、水戸徳川家と水戸学にとっての楠公という存在は、とてつもない重みを持っていたのです。

烈公が「万古に伝ふ」と詠んだとおり、明治になって「遺跡」には湊川神社が建立され、150年経った今も変わらず、人々の崇敬を集めています。見事な予言の詩ではないでしょうか。