徳川斉昭

寛政12年3月11日(1800年4月4日)~万延元年8月15日(1860年9月29日)。江戸時代水戸藩第9代藩主。江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の実父。幼名は虎三郎のち敬三郎。字は子信、号は景山、潜龍閣。烈公と諡された。

第7代藩主徳川治紀の三男として生まれ、他家へ養子に出ることもなく30歳まで部屋住みであったが、文政12年(1829年)に長兄の第8代藩主・斉脩が嗣子を得られないまま亡くなると後を継いで藩主となった。

藩主となってからは、藩校弘道館を設立して教育に力を入れ、家柄にとらわれず広く人材を登用し、藤田東湖や会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎などを側近として藩政改革を進めた。水戸学の尊皇攘夷思想に基づく富国強兵を目指し、自藩で西洋近代兵器の国産化を推進し、大規模軍事訓練を実施したのみならず、幕府に対して蝦夷地の開拓を提言するなど、幕政にも影響を及ぼした。

嘉永6年(1853年)6月、ペリーの浦賀来航を受けて幕府の海防参与を引き受けると、強硬な攘夷を主張し、自藩で建造した大砲、弾薬、洋式軍艦を幕府に献上した。

第13代将軍徳川家定の後継者をめぐる問題では実子の一橋慶喜を推して一橋派を形成、紀州藩主徳川慶福を推す井伊直弼ら南紀派と対立したが、安政5年(1858年)4月に直弼が大老となると、6月には勅許を得ることなく日米修好通商条約を調印して開国、さらに慶福(あらため家茂)を将軍後継と決定し、斉昭は政争に完全に敗北した。さらに、これらの問題について直弼を詰問するため江戸城に登城した斉昭は「不時登城」の罪により謹慎を命じられ幕政から排除された。

同年8月、攘夷派のはたらきかけにより、孝明天皇から水戸藩に対し「戊午の密勅」が下された。勅許なく開国した幕府を批判し、幕府に対し攘夷推進の幕政改革を遂行するよう求めた上で、水戸藩に対してはこの内容を諸藩に回送するよう命じた、前代未聞の勅諚であったため、大老井伊直弼は激怒し、密勅の降下にかかわった皇族・公家や志士に対する徹底的な処罰・弾圧をおこなった(安政の大獄)。安政6年(1859年)8月、斉昭に対しても永蟄居の処分が下り、処分の解けぬまま、万延元年(1860年)8月15日に亡くなった。