永井荷風の漢詩 墨上春遊 其七(墨上春遊 其の七)

作者

永井荷風

原文

墨上春遊 其七

櫻花籠月夜朦朧
一刻千金興不空
春暖吾妻橋下水
溶溶碧漲岸西東

訓読

墨上春遊 其の七

桜花 月を籠めて 夜 朦朧
一刻千金 興 空しからず
春 暖かなり 吾妻橋下の水
溶溶として碧 漲る 岸の西東

隅田川の春遊び

桜の花が月をつつみこんでぼんやりとした夜
まさに一刻値千金という風情で興が尽きない
暖かな春、吾妻橋の下を流れる隅田川
その青い水がひたひたと東西両岸にみなぎっている

墨上:「墨」は「墨水」つまり隅田川(墨田川)のこと。「上」は文字通り「川の上」の場合と「川のほとり」の場合があるが、この連作中に船がでてくるので、この場合は「隅田川の上」の意味であろう。
籠:こめる。つつみこむ。
朦朧:おぼろなさま。ぼんやりとしたさま。
一刻千金:わずかな時間でも大金にあたいするほど値打ちがある。蘇軾の詩にもとづく。 蘇軾《春夜詩》「春宵一刻値千金 花有淸香月有陰」
空:むなしい。何もない。なくなる。つきる。
吾妻橋:隅田川にかかる橋のひとつ。安永3年(1774年)に架橋され、当初、大川橋と呼ばれたが、次第に江戸の町民からは「あづま橋」(江戸の東にあるからとも、東岸の向島にある吾嬬神社に通じるからとも)と呼ばれるようになり、明治9年(1876年)に正式に吾妻橋と命名された。明治20年(1887年)に鉄橋に架け替えられ、関東大震災後の補修を経て、昭和6年(1931年)に現存の橋に架け替えられた。この詩に詠まれたのは明治20年架橋の鉄橋であろう。
溶溶:水がさかんに流れるさま

餘論

荷風が若い頃に詠んだ「墨上春遊」と題する連作のうちの一首です。のちに隅田川東岸の向島界隈を舞台にした小説『濹東奇譚』を著した荷風らしく、花月夜の隅田川の風情を過不足ない流麗な筆致で描いていて感心させられます。僕のような田舎者の読者にも粋な情緒が伝わってくる上手い詩だと思います。

なお、荷風は隅田川をあらわす「墨」のかわりに国字の「濹」を用いていますが、漢詩に国字を用いるのは抵抗があるので、ここでは「墨」としました。「濹」の字は林述齋(江戸後期の儒者)の造字だそうですが、さんずい無しの「墨」で隅田川をあらわすことは江戸時代から定着しており、わざわざ国字の「濹」を使う必要はないのでは、と個人的には思います。