後花園天皇の漢詩 賜足利義政(足利義政に賜ふ)

作者

原文

賜足利義政

殘民爭採首陽薇
處處閉爐鎖竹扉
詩興吟酸春二月
滿城紅綠爲誰肥

訓読

足利義政に賜ふ

残民 争ひ採る 首陽の薇
処処 炉を閉ぢ 竹扉を鎖(とざ)す
詩興 吟ずれば酸なり 春二月
満城の紅緑 誰が為に肥ゆ

将軍足利義政に与える詩

飢饉の中かろうじて生き残った民は食べるものがなく、まるで首陽山で餓死した伯夷叔斉のように野草を争い採って食べている
どこの家でも囲炉裏に火はなく戸も閉じたままだ
おりしも春たけなわ、詩興をもよおしはするが、いざ詩を吟じても辛く苦しいばかり
この都の街いっぱいの花と緑は、いったい誰のために生い茂っているのか、楽しむ者もいないというのに

首陽:殷の紂王を武力討伐した周の武王を批判した伯夷・叔斉の兄弟が隠れ住んだ山の名前。
:野草の一種。野豌豆。食用になる。伯夷・叔斉は周の穀物を食べることを恥じて、首陽山の野草だけを食べて暮らし、やがて餓死した。なお「薇」で「ゼンマイ」を指すのは日本の読み方。
詩興:詩を作りたいという気持ち
春二月:旧暦2月。現在の暦では3~4月にあたる
紅綠:紅は花、綠は木々。

餘論

寛正2年(1461年)の春、飢饉に苦しむ世の中をよそに贅沢にふける将軍足利義政を戒めるために、後花園天皇が詠んだ詩です。天皇が将軍を戒めた、おそらく日本史上唯一の詩でしょう。さすが室町時代随一の名君の戒めだけあって、静かながらも強烈なメッセージがこめられており、義政の立場からすると、ぐうの音も出ず、ちぎれそうなほど耳が痛い内容になっています。ただ、細かいことを言うと、承句の四字目「爐」が孤平(七言の近体詩で四字目の平字が前後を仄字にはさまれること)になっています。英明な後花園天皇といえども千慮の一失があったということでしょうか。

後花園天皇と義政はもともと蹴鞠などを通じて親交がありました。そもそも幼くして即位した後花園天皇は当初、義政の父・義教の後見を受けながら学問にはげみ、天皇にふさわしい教養と徳を身につけていきました。その義教が暗殺された後、今度は逆に幼い幕府のトップを後花園天皇が教え導く立場になりました。少なくとも、まじめな人格者であった天皇自身はそれを自らの責務だと考えたはずです。そんな天皇のまじめさと責任感が凝縮したような詩です。

この詩が義政の心にどれだけ響いたのかはわかりません。その後の行動を見る限りはあまり反省したようには見られません。ただ、天皇の最後を看取ったのは義政と妻の日野富子でしたし、さらに側近が止めるのも聞かず、応仁の乱のさなか、葬儀のすべての行事に参加しています。耳の痛いことを言われるからと煙たがることはなかったようですから義政も根は悪い人間ではないのでしょう。どう見ても正反対の二人ですが、二人の間には当人同士にしかわからない結びつきがあったのかもしれません。