室町時代の天皇(1419~71 在位1428~64)。崇光天皇(在位1348~51)の孫・貞成親王の第一王子として生まれた。諱は彦仁。

曾祖父である崇光天皇は正平6年(1351年)、足利尊氏が南朝に帰順した「正平の一統」によって廃位され、しかも翌年には京都に攻め入った南朝軍によって拉致された。正平の一統の破綻により京都の北朝と幕府は崇光上皇の弟、弥仁を擁立した(後光厳天皇)。正平12年(1357年)に崇光上皇は南朝から解放されて京都に戻るが、幕府の支持を背景に後光厳天皇の子孫が皇位を継承し続けていった。しかし称光天皇(在位1412~1428)が男子のないまま崩御したことにより後光厳流は断絶することとなり、正長元年(1428年)、崇光天皇の曽孫である彦仁王が即位した(後花園天皇)。

永享5年(1433年)10月、後小松院の崩御により院政をおこなう上皇が不在となり、後花園天皇の親政が始まった。15歳の天皇は、実父・貞成親王の薫陶と将軍・足利義教の後見を受けながら、和漢の学問に励み、文道の振興によって天皇と朝廷の権威の恢復に努めた。

永享の乱(永享10年、1438年)、嘉吉の乱(嘉吉元年、1441年)などでは、幕府に対し朝敵討伐を命じる「治罰綸旨」を発することで乱の鎮圧に重要な役割を果たし、天皇の政治的権威を復活させていった。さらに嘉吉の乱によって将軍足利義教が暗殺されたのちは、義勝・義政と相次いで幼少の将軍が即位したことで幕府の求心力が低下し、中央政府(朝廷+幕府)を主導できる唯一の権威として後花園天皇の存在感はいっそう高まっていった。

寛正5年(1464年)、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり院政をしいたが、応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発すると、自らの不徳を愧じて出家した。文明2年12月27日(1471年1月18日)、中風(脳血管障害)のため崩御した。

後花園天皇は、南北朝の分裂と後光厳流歴代天皇の資質の問題により地に堕ちていた天皇と朝廷の権威を復興させた中興の英主として高く評価されており、室町時代随一の聡明な天皇であったといえる。