西郷隆盛の漢詩(12) 庚午元旦
作者
原文
庚午元旦
破曉鐘聲歳月更
輕煙帯暖到柴荊
佳辰先祝君公壽
起整朝衣拜鶴城
訓読
庚午元旦
破暁の鐘声 歳月 更(あらた)まり
軽煙 暖を帯びて柴荊に到る
佳辰 先づ祝す 君公の寿
起ちて朝衣を整へ 鶴城を拝す
訳
庚午の年の元旦
夜明けを告げる鐘の音で年があらたまり
うっすらとした靄がぬくもりを帯びながら我があばら家までたなびいてくる
このよき日に真っ先に祝うのは我が殿の健康長寿であり
立ち上がって正装に着替え、殿のおられる鶴丸城にむかって拝むのだ
注
庚午:明治3(1870)年。西郷は当時、薩摩藩参政として鹿児島にいた。
軽煙:うっすらとした靄。「煙」は「けむり」ではなく、靄や霞、霧などを指す。
柴荊:粗末な住まい。あばら家。
佳辰:佳日。よき日。
君公:主君。諸侯。殿さま。ここでは西郷が参政として仕える薩摩藩知事島津忠義(島津久光の子)を指す。この詩の時点ではまだ廃藩置県(明治4年7月)の前であり、幕藩時代と同様に、島津忠義が「藩知事」という名の殿様として鹿児島城にいた。
朝衣:朝廷に参内するときの衣服。転じて正装、礼装。
鶴城:鹿児島城。別名を鶴丸城という。この詩が作られてから4年後の1874(明治7)年に焼失してのち再建されず、現在は石垣や堀、石橋、出丸跡などが残っている。
餘論
今回は西郷隆盛の元旦の詩を紹介します。作られたのは明治3年の元旦、おりしも幕藩体制から中央集権体制へ統治機構が改変される時代の転換点であり、この翌年には廃藩置県が断行され、西郷が「君公」と呼んだ藩知事島津忠義も失職して公爵となり東京へ移住することとなります。廃藩置県の決定までは非常に複雑な経緯をたどりますが、当時、中央政府に復帰していた西郷も最終的には同意し、この大改革を実施する立場となっていました。さすがの西郷も、この詩を詠んだ時点では、わずか一年半後に自らが「君公」を「鶴城」から追い出す役回りになろうとは予想できなかったでしょう。
なお、「君公」については、島津忠義ではなく、忠義の父で藩の実権を握っていた「国父」の久光を指している可能性もありますが、いかに実権が久光にあったとはいえ、藩知事たる忠義をさしおいて久光のほうを「君公」と呼ぶのは支障があるのではないかと考え、ここでは忠義を指しているものとしておきます。
なお、「君公」については、島津忠義ではなく、忠義の父で藩の実権を握っていた「国父」の久光を指している可能性もありますが、いかに実権が久光にあったとはいえ、藩知事たる忠義をさしおいて久光のほうを「君公」と呼ぶのは支障があるのではないかと考え、ここでは忠義を指しているものとしておきます。
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