伊藤博文の漢詩 題白雲洞(白雲洞に題す)

作者

原文

題白雲洞

金風颯颯夕陽中
閑倚溪樓對晩楓
不是樊川亦吟愛
天妃留我醉殘紅

訓読

白雲洞に題す

金風 颯颯たり 夕陽の中
閑(しず)かに渓楼に倚りて晩楓に対す
是れ樊川にあらざるも亦た吟愛せん
天妃 我を留めて残紅に酔はしむ

白雲洞で詩をかきつける

秋風がヒューヒューと吹く夕陽の中で
私はのんびりと谷川に臨む旅館の欄干によりかかって夕暮れの紅葉をながめる
これほど見事な紅葉を見れば、あの杜牧でなくとも誰しも詩を吟じてめでることだろう
ここ白雲洞では女神が私を引き止めるので、私は散りかかる紅葉を肴に酔っぱらうのだ

白雲洞:広島県の宮島に明治時代にあった料理旅館の名前。
金風:秋風。秋は五行(木・火・土・金・水)のうち「金」に属する。
颯颯:風の吹く音。
溪樓:谷川に臨むたかどの。白雲洞のこと。
:本来はマンサク科の「フウ」という中国原産の落葉高木のことだが、日本では葉のかたちが似ていることからカエデをあらわすのに使われる。
不是~亦・・・:「亦」はここでは「それなのに」「それでも」の意となる。~でなくとも(~でないのに)・・・である、の意。 戴叔倫《夜發袁江寄李潁川》「不是愁人亦斷腸」
樊川:晩唐の詩人杜牧(803~853)の号。《山行》の「停車坐愛楓林晩 霜葉紅於二月花(車を停めて坐ろに愛す楓林の晩 霜葉は二月の花よりも紅なり)」という句が有名。
天妃:海運の女神。《元史・祭祀志》「惟南海女神靈惠夫人,至元中,以護海運有奇應,加封天妃神號・・・・直沽、平江、周涇、泉、福、興化等處皆有廟」宮島の厳島神社の祭神も三女神である。また、暗に酒席にいた芸妓のことも指しているのであろう。
殘紅:本来、散りかかる花、あるいは落花のことだが、ここでは花でなく紅葉のこと。

餘論

明治29(1896)年11月に、伊藤博文が宮島を訪れた際に詠んだ詩です。

『武士の家計簿』などで有名な日本史学者の磯田道史先生が読売新聞に連載している「古今をちこち」で、先日(10月11日)、この漢詩が取り上げられていました。(→伊藤博文の漢詩「題白雲洞」をめぐって



磯田先生が宮島に取材におもむいた際に目にした掛け軸に書きつけられた伊藤の詩と、それを推敲したものとみられる『藤公詩存』中の「題白雲洞」(この詩)の両方を紹介しています。日本人の漢詩を取り上げてもらえたのはうれしいのですが、詩の読み方が一部間違っています。

起句・承句はだいたい問題ありませんが、まずいのは転結です。磯田先生は転結を以下のように解釈しています。
是れ樊川にあらざれども亦た愛を吟ず 天妃 我を留めて酔い紅を残す (杜牧でなくても愛を吟じ 女神が私を留めて、酔うと紅が残った)
いろんな間違いが複合的に絡み合って、よくわからない解釈になっています。「酔うと紅が残る」とはどういう意味なのでしょうか?

順番に正していきましょう。まず転句「不是樊川亦吟愛」ですが、磯田先生はこれを「不是樊川」と「亦吟愛」に区切ってしまっていますが、これは「不是~亦・・・」で反語を意味しているので区切ってはいけません。「樊川も吟愛」しないことがあるだろうか、いや、きっとする、という意味です。さらに、「吟愛」を「愛を吟ず」と訓じていますが、これも無理があります。文脈から考えて、また磯田先生自身も記事の中で触れているとおり、杜牧の「車を停めて坐ろに愛す楓林の晩 霜葉は二月の花よりも紅なり」を踏まえていることを考えれば、「吟愛」は「吟じ、愛す」と理解するのが自然です。

次は結句の下三字「醉殘紅」です。これは「殘紅(散りかかる花、落花)」という熟語を知っていれば迷うことはありません。「残紅に酔う」と読む以外の読み方はあり得ないでしょう。そもそも漢詩文で「残」を他動詞として用いる場合は「そこなふ」と読むのが基本で、「のこす」と読むことはまずありません(「残」という字の本義は「そこなう、こわす、きずつける」であり、そこから転じて「そこなわれた後の残り」という意味が派生したのです)。なお、「殘紅」は本来は「散りかかる花、落花」の意味ですが、ここでは花ではなく紅葉のことになります。転句で杜牧を持ちだして読者に「霜葉は二月の花よりも紅なり」を想起させた後だけに、「殘紅」が花ではなく紅葉を意味することが無理なく受け入れることができます。このあたりの推敲のテクニックはさすがと、感心します。