日柳燕石の漢詩(1) 中元掃墓(中元 墓を掃ふ)
作者
日柳燕石
原文
中元掃墓
童心未革二毛繁
墓下秋風吹淚痕
猶記慇懃曾問母
幾宵眠去是蘭盆
訓読
中元 墓を掃ふ
童心 未だ革まらざるに 二毛 繁し
墓下の秋風 涙痕を吹く
猶ほ記す 慇懃に曾て母に問ふを
幾宵 眠り去れば 是れ蘭盆と
訳
お盆に墓掃除をする
心はまだ子供のままで大人になり切れないというのに頭はすっかり白髪交じりだ
親の墓の前で生前を思い出して流れる涙の痕を秋風が吹く
今でも思い出すのは、母にしつこくこう尋ねたことだ
「あといくつ寝るとお盆なの?」と
注
中元:もと中国の道教で(旧暦)正月・七月・十月の十五日を「三元」と呼び、七月十五日を中元と呼んだ。中元は地官大帝(地獄の帝王)の誕生日とされ、死者の罪が赦されるよう願う行事がおこなわれた。またあの世とこの世がつながり、亡くなった祖先が子孫に会いに来るとされた。一方、中国仏教はこの日に祖霊を供養する行事としてインド仏教には存在しない盂蘭盆会を作り出し、やがて道教の中元と仏教の盂蘭盆会は一体化した。日本に伝わった後、中元のほうは、お盆の時期に世話になった人に贈り物をする習慣(お中元)のことを指すようになった。ただし、本詩の題における「中元」は本来の意味である旧暦七月十五日を指している。日本では太陽暦採用後、盂蘭盆会(お盆)は太陽暦でのひと月遅れとなる八月十五日(月遅れ盆)に行うことが一般的となり、お中元のほうは太陽暦でも七月十五日のままの地域と月遅れの八月十五日の地域に分かれるようになった。
革:あらたまる。変化する。
二毛:黒髪と白髪。白髪まじりであること。
秋風:お盆は立秋より後であるから秋である。
記:記憶する。思い出す。
慇懃:ねんごろに、手厚く親切に。ここでは、何度もしつこく、ぐらいの意味であろう。
眠去:「去」は助字。動詞の後ろについて、その動作が続いていくニュアンスをあらわす。
蘭盆:盂蘭盆会の略。お盆。
餘論
前回、高杉晋作の「西浦港寄内(西浦港にて内に寄す)」を紹介した際に、四国に逃れた高杉をかくまった侠客として日柳燕石の名前が出ましたので、今回は燕石のお盆の詩を紹介します。
燕石は讃岐国榎井村(現・香川県仲多度郡琴平町)の豪農の家に生まれ、経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ちました。幼いころから学問好きで、詩文や書画にも優れ、親からすると自慢の跡取り息子だったと思われます。
そんな燕石が両親と死別したのは天保八年(1837年)、数えで21歳の年で、父・惣兵衛と母・幾世を相次いで亡くしました。その後、燕石は遊侠の世界で名をあげ、やがて千人を超える博徒の大親分となります。一方で尊皇攘夷の志を抱いて、各地の勤王の志士と交流して「勤王博徒」と呼ばれました。高杉の件でわかるように、全国から志士たちが燕石をたよって身を寄せてくることも多く、燕石は身を挺して彼らを庇護しました。高杉をかくまった件では、高杉が幕府にも追われていたことから、燕石自身が高松藩に捕らえられ、二年半余りもの間、投獄されてしまいます。
しかし、いくら「勤王博徒」といえど、博徒は博徒。燕石自身、「やりたくて博徒をやっているわけではない」という詩を詠んでいることからも、内心忸怩たる思いを抱いていたことがうかがい知れます。特に亡き両親に対しては申し訳ないという思いが胸を苦しめたことでしょう。承句の「涙」は決して作詩上のレトリックではありません。
この詩の肝は、やはり後半の回想シーンでしょう。侠客になる遥か以前、まだ幼かった長次郎少年(燕石)が、お盆を楽しみにして待ちきれない思いで母親に甘える姿がありありと描かれていて、胸を打ちます。回想シーンが幸せそうであればあるほど、現在流している涙の苦さが際立つのです。
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