岩崎弥太郎(いわさき やたろう)

2020年5月4日月曜日

作者


明治時代の実業家。三菱財閥の創業者。弥太郎は通称、諱は敏(のちに寛)。号は東山。

天保5年12月11日(1835年1月9日)、土佐藩の地下浪人(郷士の身分を売却して浪人になった者)の家に生まれた。安政5年(1858年)、当時不祥事を起こして蟄居中であった元参政の吉田東洋の開く少林塾に入塾し、東洋の甥の後藤象二郎らと知り合うことになった。東洋が参政に返り咲くと藩吏に登用されて海外事情調査のため長崎に派遣されたが、花街での遊蕩で資金を使い果たして無断で帰藩したため罷免された。

文久2年4月(1862年5月)、武市半平太率いる土佐勤皇党が東洋を暗殺して藩の実権を握って以降は農事に励んだ。文久3年(1863年)、武市が失脚し、後藤象二郎が藩政に復帰した後は、開成館長崎商会(土佐藩の対外貿易の窓口)の主任や、海援隊(坂本龍馬らが結成した亀山社中を土佐藩が外郭団体とした組織)の財務担当をつとめた。

維新後は、土佐藩首脳が立ち上げた九十九商会に入り、のち経営者になった。土佐藩から払い下げを受けた船を使って海運事業をおこない、高知~神戸、東京~大阪航路で順調に利益をあげた。九十九商会はその後、三川商会から三菱商会、さらに三菱蒸汽船会社に改名した。

明治7年(1874年)、台湾出兵の際、外国の汽船会社は局外中立を理由に日本政府からの兵員輸送依頼を拒否したため、三菱が一手に引き受けることになった。これを機に三菱は政府との結びつきを深め、政府から強力な援助を受けることで、外国汽船会社との競争に勝利し、国内の海運業を独占することになった。

明治15年(1882年)、渋沢栄一ら反三菱の財界人が出資して共同運輸会社を設立して海運業に参入、三菱との間で激しい価格競争を繰り広げた。両社とも譲らず、競争は過熱して次第に不毛なダンピング合戦と化すなか、岩崎弥太郎は明治18年(1885年)2月7日病死した。

弥太郎の死後、政府の仲介により、明治18年(1885年)2月、三菱汽船と共同運輸が合併して日本郵船を創設し、これが三菱財閥(三菱グループ)の源流となった。